権力の強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 03:04 UTC 版)
「ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン」の記事における「権力の強化」の解説
その後ルイ・オーギュストは父王の保護の下で大きな権力を維持し、ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフと義妹のアンギャン令嬢マリー・アンヌを結びつけた。 1714年7月23日、父王は庶子であるルイ・オーギュストと弟のルイ・アレクサンドルにプランス・デュ・サン(Prince du sang)の身分を授け、二人を正式なフランス王位継承者とした。この頃、ルイ14世の嫡男グラン・ドーファン、孫のブルゴーニュ公、ベリー公兄弟とルイ14世の王位継承者が3人続けて亡くなっていることと、幼い曾孫のアンジュー公(後のルイ15世)にはフランス王位を継がせるのは難しく、オルレアン公フィリップ2世もスペイン王家の血を引くことからアンジュー公かオルレアン公をスペイン王座につかせようと父王は考え、フランス王位には自身の直系である彼の嫡子を王位継承者にすることによって内戦を防ぐことを望み、このような措置がなされた。 しかし、正式なフランス王家の嫡子であるコンデ公ルイ4世(ルイ・オーギュストの妻の甥、ブルボン公)やオルレアン公は、ルイ14世の庶子が共に王座の間に入るのが不満であった。ルイ・オーギュストの敵であるサン=シモン公は翌日に挨拶にやってきている。そしてルイ・オーギュストは父王に共同摂政政治の中からオルレアン公を下ろす内容の遺書を書くよう迫った。同年8月26日に父王はルイ・オーギュストを大統領及び地方検事総長とした。父王はその際、自分の後ろ盾あってのルイ・オーギュストであることを諭すようなことを述べている。1715年8月、ルイ14世の体調が著しく悪化し、同月22日にベルサイユ庭園で行われるフランス騎兵隊のパレードの指揮をルイ・オーギュストに代行させるようを命じたが、結局この行事はオルレアン公の軍隊が指揮を取り行われた。 同年9月1日にルイ14世が死去。父王の遺言はオルレアン公とメーヌ公で若いルイ15世の摂政政治をすることだった。翌日には議会で摂政政治を宣言しなければならなかった。オルレアン公はルイ・オーギュストが私生児であることを盾にパリ高等法院においてルイ14世の共同摂政の遺言を取り消し、オルレアン公フィリップ2世が幼王の摂政となった。そして摂政政治の会議にブルボン公を招くことにしたが、ブルボン公はルイ・オーギュストの命令に従わなかった。この会議でルイ14世の親族はブルボン公に多くの摂政政治権を与えた。1718年8月26日にサン=シモン公はルイ・オーギュストから王族の称号プランス・デュ・サンと近衛隊司令官職を奪い取り、単なるルイ14世の庶子であるとし、ルイ・オーギュストは摂政から追い出される形となった。
※この「権力の強化」の解説は、「ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン」の解説の一部です。
「権力の強化」を含む「ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン」の記事については、「ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン」の概要を参照ください。
- 権力の強化のページへのリンク