安達泰盛との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 02:44 UTC 版)
弘安2年(1279年)の日蓮書状(聖人御難事)には「平等も城等もいかりて此の一門をさんざんとなす」とあり、本来身分的には御家人より一段下である御内人の頼綱の勢力が、有力御家人であった安達泰盛らの勢力と拮抗していた事を示している。蒙古襲来によって幕府の諸問題が噴出すると同時に、戦時体制に乗じて得宗権力が拡大していく中で、得宗権力を行使する御内人の勢力は増し、その筆頭である頼綱と、得宗外戚で伝統的な外様御家人を代表する泰盛との対立が深まっていた。弘安7年(1284年)正月には内管領就任が確認され、父から受け継いだ侍所所司・寄合衆・内管領を兼ねる得宗被官最上位として長崎氏一門が得宗家公文所・幕府諸機関に進出している。 弘安7年(1284年)4月、両者を調停していた執権時宗が死去する。得宗の死と同時に北条一族内で不穏な動きが生じ、六波羅探題北方の北条時村は鎌倉へ赴こうとして三河国で追い返され、探題南方の北条時国は悪行を理由に鎌倉へ召還され、頼綱によって誅殺された。時国の叔父の時光は謀反が露見したとして種々拷問を加えられて佐渡国へ流された。7月に14歳の貞時が執権に就任する。貞時の外祖父である泰盛は将軍権力の強化、得宗・御内人の権力を抑制する改革(弘安徳政)を行い、貞時の乳母父で内管領である頼綱との対立は更に激化する。弘安8年(1285年)11月、ついに鎌倉市街で武力衝突に至り、執権貞時を奉じる頼綱の先制攻撃によって泰盛と安達一族は滅ぼされ、泰盛与党であった御家人層は一掃された。 これを霜月騒動という。
※この「安達泰盛との対立」の解説は、「平頼綱」の解説の一部です。
「安達泰盛との対立」を含む「平頼綱」の記事については、「平頼綱」の概要を参照ください。
- 安達泰盛との対立のページへのリンク