南朝勢力との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 14:43 UTC 版)
康永元年/興国3年(1342年)には征西大将軍懐良親王が熊野水軍や伊予の海賊衆に守られながら鹿児島市南部にある谷山城に入城すると結集軸となり城主谷山隆信はじめ谷山御所に南朝方の各地の諸氏が参集し勢いを取り戻し、薩摩半島山南を勢力下に収めることとなった。勢いづく谷山城を貞久は幾度となく攻撃を仕掛けるがこれを落とせず、戦況はなかなか有利にならないばかりか、正平2年(1347年)6月、懐良親王率いる南朝方と熊野水軍三十余艘とが海と陸から、貞久の本拠である東福寺城(現・鹿児島市清水町)を急襲したこともあったが貞久方は辛うじてこれを撃退に成功する。正平5年(1350年)、そのような状況の中、北朝方は尊氏方と直義方とに分裂(観応の擾乱)、この間、直義方の畠山直顕とも戦わなければならず、一時南朝の軍門に下らざるを得ないほどであった(観応の擾乱終結後、北朝方に復帰)。
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