南朝の成立と南北朝併立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 09:17 UTC 版)
「南朝 (日本)」の記事における「南朝の成立と南北朝併立」の解説
後醍醐天皇は京都を脱出して吉野へ逃れて朝廷を開き、光明天皇に渡した神器は偽物であると主張し、南北朝が成立する。以後、吉野の朝廷は南朝、京都の朝廷は北朝と呼ばれる。後醍醐天皇は、新田義貞に恒良親王、尊良親王を奉じさせて北陸へ、懐良親王を九州へ派遣し、北畠親房は常陸国へ赴いて、それぞれ諸国で南朝勢力の結集を図る。新田義貞、北畠顕家らはそれぞれ撃破されて戦死し、1339年(延元4年/暦応2年)には後醍醐天皇が崩御して後村上天皇が即位する。一方、尊氏は1338年(延元3年/暦応元年)に北朝から征夷大将軍に任じられる。後醍醐天皇の崩御後は北畠親房などが南朝を指揮するが、1348年(正平3年/貞和2年)には楠木正行らが四條畷の戦いにおいて足利方の高師直に敗北し、さらに吉野も奪われた南朝は賀名生へ移る。
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