南朝吉野行宮時代略歴
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延元元年/建武3年12月21日(1337年1月23日)、後醍醐天皇が京から脱出して大和国吉野(奈良県南部)で南朝を開き、南北朝の内乱が勃発した。この時後醍醐天皇に付き従った真言宗の高僧は、文観の兄弟弟子かつ弟子である元・醍醐寺座主の道祐である。一方、文観は南朝成立時点で後醍醐に随行したかは不明である。当時は文観から真言宗全体への影響力がまだ残存していたとみられることから、どちらかといえば数か月遅れて南朝に合流したとも考えられる。少なくとも、延元2年/建武4年(1337年)3月15日には文観は吉野にいたと見られ、金峰山周辺で著作活動を行っている。文観はこのときちょうど数え60歳である。 文観は、延元2年/建武4年(1337年)後半から延元3年/暦応元年(1338年)にかけては、著作活動と仏教美術の監修に専念した。後醍醐天皇は吉野で帝自ら盛んに修法(祈祷)を行っており、それを補佐するための後醍醐専属の学僧という面があったと思われる。また、延元2年/建武4年(1337年)には吉野現光寺に赴き、自身が37年前に描いた叡尊画像を見て感慨のあまり再署名を行っている。既に功成り名遂げた真言宗の政僧ではあるが、この時期たびたび律僧としての署名も行い、戒律護持を志す初心に立ち返ることを表明している。 一方この頃、南朝鎮守府大将軍の北畠顕家や南朝総大将の新田義貞らが討死し、幕府の足利尊氏は北朝から征夷大将軍に補任されるなど、南朝は軍事的に窮地に立たされていった。なお、正確な制作時期は不明だが、吉野の吉水神社には、文観の絵筆と後醍醐天皇の書の合作による両界種字曼荼羅が残されており、この頃、文観と後醍醐天皇が戦死者たちの安寧を祈って自らの手で制作したものであると考えられている。 こうした中、文観は南朝大僧正として、後醍醐天皇によって延元4年/暦応2年(1339年)1月25日に第66代醍醐寺座主に再任され、6月26日には東寺長者より上位の地位である第3代東寺座主となった。しかし、北朝側にはこのような記録が見当たらないため、あくまで南朝側の僧職であったとみられる。また、文観は吉野にあって京都の大寺院に実権があったとは考えにくく、名誉職であるとも考えられる。仏教美術研究者の内田啓一によれば、「東寺座主」など後醍醐の父帝の後宇多上皇が用いた僧職名を用いていることから、後醍醐天皇が、父の後宇多の政策を後継者として引き継いでることや、まだ南朝が大寺院に対し任命権を持っていると主張することなどを意図した政治的行動ではないか、という。 なお、延元4年/暦応2年(1339年)6月16日には、文観は真言宗の至宝の一つ『天長印信』の書写を後醍醐天皇に依頼し、自身も料紙装飾や奥書の執筆に関わったが、これが国宝『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』である。 同年8月16日には後醍醐天皇が崩御。崩御前日に子の後村上天皇が践祚し、文観は先帝に引き継ぎ後村上帝の崇敬を受け、護持僧(天皇を祈祷で守護する僧)に任命された。9月21日には、文観は後醍醐帝の五七日供養を行い、『絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財、清浄光寺蔵)の開眼を行っている。一方、北朝側でも将軍足利尊氏の強い要望により後醍醐帝への盛大な供養が行われ、禅宗では夢窓疎石による天龍寺の創建、真言宗では足利将軍家の邸宅である三条坊門殿内の等持院で百日忌が開催された。 その後の約10年間、文観の確実な足取りは不明だが、学術的著作の執筆は継続している。また、興国3年/暦応5年(1342年)3月21日の弘法大師忌には高野山に現れて、大覚寺統重代の御物でかつて文観が後醍醐天皇から下賜された袈裟を寄進している。このとき文観が袈裟を包むのに使用した箱「蒔絵螺鈿筥三衣入」(金剛峯寺蔵)は、箱そのものが美しい芸術品であり、重要文化財に指定されている。 正平3年/貞和4年(1348年)1月、室町幕府執事の高師直によって南朝の仮の首都である吉野行宮が陥落し多数の建築物や宝物が焼失、後村上天皇は賀名生に逃れた。同じ年の7月25日、文観は多数の霊宝を、かつて自身を非難した高野山に寄進している。これは文観が真言宗内部にいまだ一定の権勢を持っていることを示す行動でもあるが、内田の推測によれば、貴重な霊宝を戦火から守って未来に残すには、大寺院である高野山に保管するのが最も良い方法と考えたのではないか、という。また、霊宝の保護を優先して、かつて自分を痛烈に批判した敵対派閥にも私情を挟まず寄進する姿からは、文観の清浄な性格が窺えるのではないか、と内田は主張している。
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