南明征伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 06:21 UTC 版)
華南各地を逃げ回っていた南明の永暦帝に、農民反乱軍の末である孫可望・李定国らが10万の農民軍を率いて帰順すると、抗清勢が勢力を拡大した。これを受けて順治10年(1653年)5月、洪承疇は太保兼太子太師・内翰林国史院大学士・兵部尚書兼都察院右副都御史に任命されるとともに、湖北・湖南・広東・広西・雲南・貴州を経略する特任総督に任じられた。 洪承疇は各地で農民反乱軍を主力とした南明勢を打ち破っていき、その中で洪承疇は順治13年(1656年)に太傅兼太子太師に、順治15年(1658年)9月に武英殿大学士を授かる。 順治16年(1659年)1月、雲南省都の昆明が陥落して永暦帝はビルマに逃げ込んだ。洪承疇は永暦帝を追うよりもまず上奏し、中央から遠くて少数民族も多くて統治の難しい雲南は明のやり方に倣って王侯を置くべきとした。これによって呉三桂が平西王として統治する事になった。また戦乱による民衆の窮状を訴え、貧民救済の費用を獲得した。これらによって雲南・貴州の治安は徐々に安定していった。 同年10月、洪承疇は目の病気で解任を願い出て、認められて北京に戻る事になった。占領地域を安定させた後の永暦帝追撃は呉三桂に任せる事になった。
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