南昌起義について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/15 17:34 UTC 版)
そもそも1927年7月30日の段階で、南昌を軍事的に占領して共産党は何を目指したのか。当時国民党は北伐の真っ最中であり、ここで武装蜂起しても国民党軍は戦力を南昌に差し向ける余裕は無いと踏んだのであろうか。仮に南昌を短期間維持できたとして、その後の展開をどう進めるのか。周恩来に対して、張国燾はこの点を論難したのであり、革命そのものを否定してはいない。 結果として8月1日に武装蜂起を起こしたものの3日には早くも撤退することになり、以後周恩来は都市の維持には広大な農村部の共産化・根拠地化は避けて通れないと考え、毛沢東路線に追随する。他方張国燾は、周到な準備と計画があればロシアの様な都市からの革命は可能であると考える様になった。
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