家名と血筋が変質した木俣氏と、家内騒動の果て
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「家名と血筋が変質した木俣氏と、家内騒動の果て」の解説
戦国時代後期に関東地方の支配者になっていた小田原北条氏が滅亡(1590年7月5日)したことにより、北条氏の有力家臣から没落してしまった浪人者・狩野主膳(伊豆国・静岡県東部出身か?)の幼い男子(守安)が、叔母の婚家である徳川方の木俣氏を頼った。木俣守勝は、この男子を養子とした上で、やがて家督を相続させた。狩野主膳は木俣守勝・妻の兄に過ぎず、男系を重んじる武家社会にあって、木俣守勝は、自分の血縁がありながら、妻の実家方、それも滅亡した敵方の戦国大名に仕えていた浪人者から迎えた遺児を、木俣氏の正当な継承予定者とした。ここに血統上は、北条遺臣の末裔であるが、名跡上は、三河国岡崎以来の木俣氏が誕生することになった。 木俣氏における家内騒動で、木俣守勝の反対勢力となった一族が、その後、どのような末路を辿ったのか。あるいは、関東入封後に、まもなく3000石まで加増された木俣守勝の兄弟や、それ以前の木俣氏分脈が、井伊氏家臣団や、徳川旗本に、1つも残らなかったことから、その行方が問題となる。 また伊勢国楠氏は、1584年に滅亡し、近江国彦根藩の木俣氏には、家名と血筋が変質したため、大楠公(楠木正成)と、楠木一族の血は、残らなかった。 しかし、小諸家臣木俣氏が、木俣守勝家の分かれの家とするならば、ここにその血統は、温存されることになった。また長岡家臣木俣氏と、三根山家臣木俣氏も、大楠公の血統を汲んでいる可能性がある。 小諸市乙の木俣家碑文には、南朝の忠臣として、著名な大楠公(楠木正成)の流れを汲む家であることは、書かれていない。
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