小諸藩牧野氏の家臣団とは? わかりやすく解説

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小諸藩牧野氏の家臣団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 12:21 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団(こもろはんまきのしのかしんだん)は、元禄15年(1702年)に、越後国与板(新潟県長岡市西部)の陣屋から、小諸城(のちの懐古園)の城主に栄転して、明治4年(1872年)廃藩置県まで存続した小諸藩牧野氏の家臣団である。小諸藩主牧野氏は、三河国宝飯郡牛久保城主を発祥とする徳川譜代・越後長岡藩主牧野氏の完全な支藩であるため、その家風は、本藩を見習うことが定められていた。その家風とは、「参州牛久保之壁書」と呼ばれる"常在戦場・鼻を欠いても義理を欠くな"などを家訓として掲げたものである。


  1. ^ 特に提示しないものは【東京大学史料編纂所蔵・小諸藩関係史料】・【独立行政法人国文学資料館所蔵・小諸藩関係史料】・【国立公文書館所蔵・小諸藩関係史料】・【小諸藩主牧野氏の年譜(阿部芳春著)】を基本出典として記述する。基本出典の詳細は、当ページに明記した。なお、3箇所・1点以外の出典については必要に応じて各項毎に示し、当ページの参考文献欄を参照とする。
  2. ^ 小諸城主牧野家と牧野八郎左衛門家とは、近縁ではない。両家の家系を遠く中世まで遡って調べても、続き柄が明確にはわからない(諸説が有り)。信濃上田藩の松平家は徳川家康、男系高祖父の弟が家祖であることは知られているが、上田藩は親藩ではなく、譜代大名である。これと同じく牛久保城主牧野氏の一門衆であった牧野八郎左衛門家の前身の家である牧野平四郎家は、伊奈から牛久保に来て定住した15世紀から16世紀ごろには、牛久保城主牧野氏からは、その一族あるいは、遠縁と認識されていたとしても、時代が下って江戸時代になると、牧野八郎左衛門家は、藩主の一族家臣及び、一門家臣ではなく、譜代の家臣としての取り扱いになっていたことは、有り得ることである。
  3. ^ 重臣の家柄とは、加判の家柄という意味である。加判の家柄であっても、その下位に位置する家柄の者は、家督を相続して当主になっても、運や能力によって長い年数にわたって側用人・大目付・奏者・三奉行・物頭・公用人・番頭・江戸留守居役などの役職を勤めないと、加判職に就任できないことも珍しくなかった。また加判の家柄の上位に位置しても、若死(牧野八郎左衛門家)・病身(真木権左衛門家)・懲戒処分(木俣重郎右衛門家)などの理由で加判職に就任できないまま終わった者もいた。
  4. ^ 古包の家の「古」の定義は、厳密には不明である。木俣氏に関しては、古包とか古包の家臣といった記述は、各種小諸藩文書には、見て取れない。
  5. ^ ここでは、明治元年・慶応4年以前に、改易・取り潰しとなった牛久保以来の家、または古包の家については、記述を省略した。
  6. ^ 槇(真木)権左衛門則陽以前の家臣筆頭役の姓名については、通称名(例、真木権左衛門)のみで、名(例、真木則陽)が残っていないことがあるため、このような記述とした。特に稲垣氏と加藤氏は、「名」が伝わっていない部分が多い。
  7. ^ 牧野八郎左衛門成澄の実家方曾祖母は、本藩長岡家臣、新井氏に嫁した牧野八郎左衛門(初代)の2女である。かなりの遠縁から選ばれた養子であり、しかもこの養子縁組は婿入りではなかった。新井氏の正確な家系図がないため正確な親等数は不明である。彼が養子に迎えられた背景として、時の8代藩主康命は、長岡藩主の庶子が、小諸藩主に養子入りをして家督を相続していたことが挙げられる。
  8. ^ 本藩長岡藩分限帳に真木庄左衛門700石が見えるが、これは真木庄右衛門家など小諸(与板)家臣真木氏、縁者の家系といえる。
  9. ^ 江戸時代は高度な封建社会であるため、目上に対する非行・不敬などは、重く処罰されるが、目下・臣下・格下の者に対する法的責任(刑罰)は、現代とは比較にならないほど軽微なものであった。牧野求馬等が犯した非行は、現代では重罪であっても、弱者に対してなされたものであるため、封建制度が物を言い、この程度の懲戒処分で済まされたともいえる。
  10. ^ 現代の歴史学界では、家老の格式を持たない者、あるいは持てない者が、家老職に就任した場合、抜擢家老と呼称することが多い。またこのような家老は、江戸時代以来、家老並と呼ばれることもある。小諸藩では家老の家として認められれば、家老の格式を持つ家としての給人地を受けたが、抜擢家老は、当然に家老としての給人地は、支給されなかった。村井平兵衛盛堯は、天保期に抜擢家老に就任して致仕(勇退)。そして村井藤左衛門盛徳が、明治元年11月から10か月間、家老相当の執政を勤めた後に失脚しているが、いずれも用人格で就任し、かつ用人格で退役しており、家老の格式を持つ家・家系となることはなかった。
  11. ^ 村井氏が就任した会計幹事には、次のような位置付けがあった。小諸藩は、小規模な藩であり、しかも藩の財政政策を運営する職権を有しなかった勘定方の責任者は、他の役職と兼務させるのが通例であった(三奉行を参照のこと)。給人席で就任可能であり、奏者格相当の三奉行が持つ職務を3分割した役職の1つが、会計幹事であったので職権は小さなものであった。ただし、明治初期の藩政改革により、会計幹事の藩統治機構における位置付けが、相対的に上昇しているため、1つの役職が3分割されたものであっても、旧制度でいう足軽頭相当の役職といえるのである。
  12. ^ 早稲田大学法学部長などを歴任した杉山晴康は、明治期の東京専門学校(早稲田大学前身)の卒業生で、監獄学者・民政委員制度の設立者となった小河滋次郎に関して、早法100年誌(昭和57年)に寄稿し、「小河滋次郎の兄嫁「鑑」の実家、大野木家が、小諸藩 家老職 と伝えられる大橋家の分家であり、「鑑」が滋次郎の兄直躬のもとに嫁がせた。」とあるが、小諸藩の一次史料からは、大橋氏が家老職であったことは、あり得ない。杉山も「伝えられる」と記述し、伝聞であることを初めから認めている。維新期の文書には、公用人が藩主の脇に名を連ねることがあるため、公用人を家老職や加判職と見間違えることがある。しかし、よく読めば名を連ねていたとしても、藩主と、家老職や加判職ではない公用人が連名で署名・押捺をしているわけではないし、できるわけもない。また江戸武鑑に凡例・注記が少ないことも誤解しやすい原因となっている。
  13. ^ 小諸家臣木俣氏(重郎右衛門・多門家系)が、江戸時代に、たびたび「恥」をかきメンツをなくしていた件は、木俣典之助重禮の非行・不行跡を除けば、その多くは、悪質なものではなく、慎重に、よく注意を払って、確認を怠らなければ防げたものが、ほとんどであった。
  14. ^ 伊勢国の出身である木俣守勝(木俣清左衛門家系など)と、その主家となった近江国彦根藩主・井伊氏の先祖(遠江国出身)は、松平清康が三河国安城から、岡崎に進出したときから仕えてきた狭義(狭い意味)の三河譜代の家ではない。狭義とは、愛知県岡崎市が設置者の都市公園(歴史公園)である岡崎公園(岡崎城址一帯の公園)が運営しているウェブサイトが提唱している狭義(狭い意味)の三河譜代には、含まれないという意味である。ただし、幕府の内規集である柳営秘鑑の定義によれば、三河岡崎御普代には、井伊氏などが該当するが、三河御譜代とか、三河御普代、三河譜代といった章や項目は、そもそも同書(柳営秘鑑)にはない。
  15. ^ 文部科学省検定済みの歴史教科書によると、「譜代」や「譜代大名」の歴史用語の説明があるが、「三河譜代」を説明したものはない。また1600年の関ヶ原の合戦より以前に、徳川家に臣従していた家を徳川家の「譜代」と仮定するならば、徳川家康が、1590年、関東移封(江戸城に引っ越し)となったときから、1600年までの期間に臣従した家は、三河以来の家ではなく、関東出身者であっても、譜代ということになる。同様に、徳川家康が、遠江国浜松城(1570年〜1588年)や、駿河国駿府城(現役時代は1598年〜1590年。家康が竹千代と称した幼少期に、今川人質として、駿府城で過ごし、また隠居後に、大御所として、また駿府城に暮らしたが、これは、この2年間には言うまでもなく、含まない)に、本拠をおいたときから仕えた家も、三河以来の家でなくとも「譜代」であるということになる。徳川家康の三河国統一事業に抵抗して、家康軍と交戦した家であっても、関ケ原合戦より以前に臣従した家は、譜代である。このような家康の三河国統一事業に抵抗したグループは、1590年以前(関東移封より以前)には、譜代ではなく「国衆」・「東三河の衆」などと呼ばれていたことがあり、徳川家の譜代の家臣とは一線を画していた。藩主牧野氏の先祖は、この国衆・東三河の衆の区分に該当する。
  16. ^ 小諸藩士だった木俣家の先祖は、牧野さんと共に、三河・遠江から、やってきた家であると、ゆるやかに主張すれば、広義(広い意味)としては、大筋では歴史事実と合致していた。
  17. ^ すなわち、木俣家の先祖も、牧野家の先祖も、豊臣・徳川連合軍による小田原北条氏討伐のため、徳川軍配下で小田原に参陣しており、北条氏滅亡後に、そのまま関東に入封した(留守部隊についての説明は、本論から外れるので省略する)。この限りにおいては、三河・遠江から出陣してきた同じ徳川軍配下で、木俣家の先祖は、牧野さんと共に、同じ軍勢にあった家であるとの主張をしたとしても、荒唐無稽な話しではなかった。ところが、牧野家と共に、三河国牛久保城云々との記述が、碑文にあるため、史料学並びに歴史事実と矛盾し、食い違うといった主張が出ることになった。
  18. ^ 小諸市乙の木俣家碑文は、先にも述べたように、大きなものであり、私有地であっても公衆の目に広く触れる状態にあり、既成の事実として流布される懸念がある上、歴史の門外漢が碑文を読んだ場合、それをそのまま信じてしまう危険がある。そこで問題点を提起することは、公共の利益にかなうことである。
  19. ^ 初代木俣氏(木俣家の家祖)の正室は、村田古伝を信じるならば、楠城主の姪(城主長兄の娘)である。もっとも姪を、養女にしてから、嫁がせたことも、否定はできない。楠城主・家祖の長兄にあたる家系(川俣氏を表きの姓にしていた家系)は、 亀山市川俣の山狭部に隠れ住んでいた住人であった。やがて亀山市としては平地に恵まれた楠平尾地区に進出したが、弱小勢力であったといわれる一方で、楠城の家臣とはなることはなかったが同盟関係にはあった。
  20. ^ 平成の大合併後における三重県亀山市の地理的範囲には、中世に3系統の楠(楠木)氏があった痕跡が認められる。
  21. ^ 三重県四日市市に位置する楠城主の家系となった楠正威には、2人の兄がいた。長兄である楠正重の家系は 、亀山市川俣の山狭部に隠れ住み表向き川俣姓を称していた。やがて同市楠平尾地区に進出したが、4代目川俣正重の女婿が、楠正充であった。この真偽については、鈴鹿郡村田家文書のみを信じるならば、真実であるが、4代目川俣正重の女婿が、楠正充となったことについては、楠城の乗っ取りを正当化するための擬制(養子入りか、名跡の譲渡)か、後世の作り話しである可能性も否定できない。川俣正重家系は、やがて、織田信長の伊勢国侵攻により滅亡。残された郎党は平之沢に隠れ住んだといわれている。川俣正重家から、楠城主に養子入りした者(楠正充)が出てから以降の川俣氏は、楠と復姓して、その家系の末裔である楠正守・正吉親子が、北勢48家の1家である関氏に与力したのちに、楠平尾城城代から城主になった(村田古伝)。しかし、楠平尾地区を領していた(あるいは同地区の地主の1人であった)痕跡は認められるが、城や陣屋とおぼしき跡地が同地区に発見されていない。楠平尾城城代から城主になり、やがて滅んだことは、後世の創作によるものか否かは不明であるが、城や砦の裏付けとなる発見が何もない。この家系図の末代近くには楠土佐守などと書かれるなど、信憑性が疑われたり、木俣土佐守が実在したころ以降に、なされたかもしれない後世の同情的書き足しなどが推察される(村田古伝)。次兄の楠木正理も 、やはり亀山市内に土着したというが、ここでいう亀山とは狭義の亀山(江戸時代以前から亀山と呼ばれていたところ)のようである。楠木正理は、長禄の変で討死。その末裔は和歌山県熊野に逃れて、神官・神職として定着したり、やがて亀山に戻り、土着した者もでたようである。この楠木正理につては、川俣正重の弟ではなく、楠木家嫡流の者であるという説があることは、本文にも述べている。もう1系統は、亀山市関地区(旧鈴鹿郡関町)の住人であった楠木氏(楠氏)である。この楠氏こそが、本文中に説明している楠氏(盛仲弟・末裔か?、あるいは楠木正威が庶子の家か?)である。この家系から初代木俣氏が誕生した。
  22. ^ 初代木俣氏は、楠正威の庶子、木俣甚内正資(楠貞清)である。楠正威の兄は、初代川俣正重である。後に伊勢国朝明郡(四日市市)に勢力を伸ばした木俣氏は、木俣隠岐を連綿と称した(出典、鈴鹿郡村田家文書・勢州軍記・信長公記)。
  23. ^ 木俣氏先祖の故郷の一つとなる三重県亀山市川俣城は、南北朝時代に鹿伏兎氏(かぶとし)が築城。応永6年(1399年)南朝方に属して、応永の乱に敗れた佐々木満喬が、楠木正顯と共に堺から同地に落ち延びたとの有名な伝説があり、軍記物語「応永記」にもその記述があるが、史実としては、堺に楠木軍がいたのかは、定かではない。また史実では、時は戦国時代であり、江戸時代とは異なり、武士は土地に、深く根ざしていたはずである。ところが、戦乱によらず楠城の主人が、しばしば 平和的に交代しているのは、不自然である。諏訪氏を、川俣氏(木俣氏家祖の正室実家)が下剋上して、諏訪氏に対して、名跡(中島と改姓)と小領主としての存続だけを許し、やがて川俣氏が、楠木正成の末裔を自称する勢力にまた下剋上され、名目上、養子縁組(信憑性は、置くとして、村田古伝などによると、4代目川俣正重と、楠正顯のひ孫で、正威の孫にあたる楠正充が養子縁組をして楠城主となったとの記事がある)をしたに過ぎないという可能性を捨てきれない。本稿は、小諸藩の家臣について論じることが目的であるため、これ以上の説明は控える。
  24. ^ 徳川家康が、本能寺の変により、堺から脱出をはかった際の供廻り34人には、木俣守勝は、含まれないが、伊勢国出身者であったためか、伊賀を抜けて伊勢に家康が、逃亡する際に、その案内役に呼ばれたという。
  25. ^ 木俣氏の本家筋となる伊勢国楠氏は、時代が下って、織田信長の伊勢国侵略に徹底的に抗戦した。最期は、三重県松阪市の八田城(城主は、先祖に鎌倉幕府御家人の三浦氏を持つ大多和氏)まで退却したが、同城で籠城して、秀吉軍と交戦。落城後に、当主の楠正具(楠木正成9世・8親等)等は、石山本願寺に匿われた。
  26. ^ 楠正具の養子となった楠正盛(盛信)が、再起を賭けて、信長の死後、家康と同盟し、北畠氏の名跡を譲られた織田信雄100万石に加勢して、1584年、長久手の陣に出陣したが、美濃国加茂井で、秀吉軍と戦って討死。在所の楠城は、秀吉軍によって壊滅した。その後、織田信雄は、豊臣秀吉と和解したかに見えたが、領地替えの問題によって、その怒りを買い一時没落。大坂夏の陣の後、1615年徳川から、5万石の領地が与えられ、その末裔は、外様大名(上野国小幡藩主・大和国宇陀松山藩主)などとして復活・存続はしたが、楠木氏・楠氏の姓を持つ家臣の採用はなく、1584年、長久手の陣をもって、伊勢国楠氏は歴史の舞台から姿を完全に消した。僅かに秋田藩佐竹氏(久保田藩)などに、楠姓を称さないが、楠正具の末裔であると主張する家臣(柿沼氏200石)などが、残るに過ぎない(参考=山下太郎 (アラビア石油))。楠正盛(盛信)は、長久手の合戦での討死を、貴人・為政者に評価される機会を失ったともいえるが、早々に、北畠氏や伊勢国楠氏を見限って、寝返った伊勢国楠氏の分家的な位置付けにあったとみられる木俣氏は、江戸時代も、その家系と血脈が続いた。
  27. ^ 井伊の赤鬼・直政伝など。
  28. ^ 井伊年譜、彦根藩史料叢書、侍中由緒帳、木俣家文書(東京大学史料編纂所蔵)及び、彦根藩筆頭家老木俣清左衛家資料(彦根市立図書館蔵)を指す。
  29. ^ 滋賀県彦根市の公文書や広報では、彦根藩筆頭家老木俣清左衛家資料と表記され、木俣清左衛家資料史料とは、表記されていない。
  30. ^ ここでいう成瀬氏の犯した殺生とは、ヒト(人間)に対するものではない。
  31. ^ 山本清廉の原文は「山本清廉と」であり、「山本清廉の」ではないが誤記とみられる。
  32. ^ 本村氏は与板以来の古参足軽から、小諸入封後に下級士分に取り立てられたが、罪があり改易・取り潰しとなった。下級士分が取り潰しとなった場合は、永久追放となることもあったが、多くは近親者をもって、足軽として(名跡再興ではなく)新規採用されていた。幕末・維新期まで残った足軽の本村氏は、取り潰しとなった士分の本村氏が、足軽となって残ったものか、あるいは本村氏庶流などにあたるのかは不詳である。本村氏は、廃藩時、卒分上禄格式2家、卒分中禄格式1家、卒分下禄格式1家の計4家が屋敷持ち足軽であったことからもわかるように卒分としては、有力な一族であった。五十嵐氏、大野氏、桑原氏などの事例と同じといえる。
  33. ^ 「志士たちの息吹を求めて。幕末史跡巡り」に記載された解説。
  34. ^ 小諸藩では長州藩の奇兵隊のような兵制の大改革は、実施されていなかった。ましてや謁見資格を持たない卒分たる小竹氏が、藩主に近侍するなどということは、常識外のことである。軍制上、藩主に近侍するのは第一義的には、士分の身分を持つ小姓であるが、兵制に関する各種一次史料などによると、銃卒隊は、銃士隊より藩主から 離れた前衛に布陣・行軍をするのを例としていた。銃卒隊員に御神宮御持筒役という役職名・美称がつけられていたとしても、本陣備えの鉄砲隊は銃士隊であり、銃卒隊はその前衛に過ぎない。よって銃卒隊の一員である御持筒役に親衛隊的性格があったとしても、藩主に近侍する役職というのは、まったく荒唐無稽である。





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