小諸義塾とは? わかりやすく解説

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小諸義塾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/24 01:24 UTC 版)

小諸義塾

小諸市立小諸義塾記念館(2019年撮影)
国公私立の別 私立学校
学校種別 旧制中学校
設立年月日 1893年11月
創立者 木村熊二
閉校年月日 1906年3月
所在地
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小諸義塾(こもろぎじゅく)は、かつて長野県北佐久郡小諸町(現在の小諸市)にあった私塾(後に旧制中学校)である。

歴史

高等小学校を卒業した青年の勉学の場の必要性を痛感した佐久地方の代議士早川権弥が、木村熊二を小諸に招いて開校した。内村鑑三らが講演会を開き、島崎藤村が英語・国語の教鞭をとった。ほかに、三宅克己丸山晩霞鮫島晋らが教鞭をとった。柳田國男有島生馬らも訪れた。義塾の運営は主に、生徒の月謝と、町議会・郡議会からの補助金で運営したが、財政難により閉校した。

沿革

小諸義塾の跡地に立つ記念碑

脚注

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  1. ^ 小諸義塾記念館(概要)”. 小諸市. 2022年6月6日閲覧。

関連文献

関連項目

外部リンク


小諸義塾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 05:20 UTC 版)

木村熊二」の記事における「小諸義塾」の解説

1891年明治24年)、木村高輪台教会牧師辞職。翌1892年明治25年)、自由民権家の早川権弥導き伝道のために長野県南佐久郡野沢村現在の佐久市)に移住する1893年明治26年)、木村小諸私塾として小諸義塾を創設し青年教育あたった1899年明治32年)に小諸義塾は旧制中学校として認可を受け、島崎藤村丸山晩霞等が木村招かれ教師として勤務した。このほか、小諸栽培推奨したまた、木村中棚湧き水を使うと傷の治り早いのに気づき中棚鉱泉発掘にあたり、その近く書斎として「水明楼」を移築した水明楼島崎藤村の「千曲川のスケッチ」の中にも登場しており、現存する。なお、1896年明治29年)に木村三度目の妻として27歳下の東儀隆子雅楽家の東儀家出身)を迎えた地元民受け入れられなかったこともあって、小諸義塾は1906年明治39年)に財政難などによって閉校余儀なくされた。

※この「小諸義塾」の解説は、「木村熊二」の解説の一部です。
「小諸義塾」を含む「木村熊二」の記事については、「木村熊二」の概要を参照ください。

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