小諸義塾
小諸義塾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 05:20 UTC 版)
1891年(明治24年)、木村は高輪台教会の牧師を辞職。翌1892年(明治25年)、自由民権家の早川権弥の導きで伝道のために長野県南佐久郡野沢村(現在の佐久市)に移住する。 1893年(明治26年)、木村は小諸で私塾として小諸義塾を創設し、青年教育にあたった。1899年(明治32年)に小諸義塾は旧制中学校として認可を受け、島崎藤村、丸山晩霞等が木村に招かれて教師として勤務した。このほか、小諸で桃や苺の栽培を推奨した。また、木村は中棚の湧き水を使うと傷の治りが早いのに気づき、中棚鉱泉の発掘にあたり、その近くに書斎として「水明楼」を移築した。水明楼は島崎藤村の「千曲川のスケッチ」の中にも登場しており、現存する。なお、1896年(明治29年)に木村は三度目の妻として27歳下の東儀隆子(雅楽家の東儀家出身)を迎えた。 地元民に受け入れられなかったこともあって、小諸義塾は1906年(明治39年)に財政難などによって閉校を余儀なくされた。
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小諸義塾
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「小諸市立小諸義塾記念館」の記事における「小諸義塾」の解説
小諸義塾とは、キリスト教牧師であった木村熊二が小山太郎らの要請の応えて1893年(明治26年)11月に現在の小諸市で開設した私塾である。1906年に閉鎖されるまでキリスト教による近代教育を実践した。塾長は木村熊二、教師は島崎藤村、三宅克己、丸山晩霞らが務めた。
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