小諸義塾
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小諸義塾 | |
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![]() 小諸市立小諸義塾記念館(2019年撮影) |
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国公私立の別 | 私立学校 |
学校種別 | 旧制中学校 |
設立年月日 | 1893年11月 |
創立者 | 木村熊二 |
閉校年月日 | 1906年3月 |
所在地 | 〒 |
小諸義塾(こもろぎじゅく)は、かつて長野県北佐久郡小諸町(現在の小諸市)にあった私塾(後に旧制中学校)である。
歴史
高等小学校を卒業した青年の勉学の場の必要性を痛感した佐久地方の代議士早川権弥が、木村熊二を小諸に招いて開校した。内村鑑三らが講演会を開き、島崎藤村が英語・国語の教鞭をとった。ほかに、三宅克己、丸山晩霞、鮫島晋らが教鞭をとった。柳田國男、有島生馬らも訪れた。義塾の運営は主に、生徒の月謝と、町議会・郡議会からの補助金で運営したが、財政難により閉校した。
沿革
- 1893年(明治26年)11月 - 木村熊二によって小諸町内耳取町に開校。
- 1894年(明治27年) - 校舎を大手門に移し、塾内に図書館を設ける。
- 1896年(明治29年) - 小諸駅南(現在跡地の碑が所在)に移転し、二階建て校舎を新築。
- 1899年(明治32年) - 旧制中学校の教育課程を実施。島崎藤村が赴任。
- 1901年(明治34年) - 女子学習舎を創立。
- 1905年(明治38年) - 島崎藤村が退職。
- 1906年(明治39年)3月 - 財政難により閉校。校舎は、小諸町立小諸商工学校(現在の長野県小諸高等学校および長野県小諸商業高等学校)に転用された。
- 1994年(平成6年) - 建物が小諸市に寄贈され、小諸市立小諸義塾記念館移築開館[1]。
脚注
- ^ “小諸義塾記念館(概要)”. 小諸市. 2022年6月6日閲覧。
関連文献
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- 高塚暁『小諸義塾の研究--創立者木村熊二について』三一書房、1989年(平成元年)ISBN 978-4380892042
- 小山周次『小諸義塾と木村熊二先生―伝記・木村熊二 (伝記叢書(225))』大空社、1996年
- Komoro Gijuku to Kimura Kumaji Sensei : denki Kimura Kumaji. Shūji Koyama, 小山周次.. Tōkyō: Ōzorasha. (1996). ISBN 4-87236-524-0. OCLC 47275460
関連項目
外部リンク
- 小諸義塾記念館 - 小諸市
小諸義塾
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1891年(明治24年)、木村は高輪台教会の牧師を辞職。翌1892年(明治25年)、自由民権家の早川権弥の導きで伝道のために長野県南佐久郡野沢村(現在の佐久市)に移住する。 1893年(明治26年)、木村は小諸で私塾として小諸義塾を創設し、青年教育にあたった。1899年(明治32年)に小諸義塾は旧制中学校として認可を受け、島崎藤村、丸山晩霞等が木村に招かれて教師として勤務した。このほか、小諸で桃や苺の栽培を推奨した。また、木村は中棚の湧き水を使うと傷の治りが早いのに気づき、中棚鉱泉の発掘にあたり、その近くに書斎として「水明楼」を移築した。水明楼は島崎藤村の「千曲川のスケッチ」の中にも登場しており、現存する。なお、1896年(明治29年)に木村は三度目の妻として27歳下の東儀隆子(雅楽家の東儀家出身)を迎えた。 地元民に受け入れられなかったこともあって、小諸義塾は1906年(明治39年)に財政難などによって閉校を余儀なくされた。
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