小諸藩牧野家の職制と重臣
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「小諸藩牧野氏の家臣団」を参照 小諸藩牧野家の職制は、小さな藩であることもあり簡素であったので、家老職(定数3・例外4)があったほか、中老職・年寄役・年寄衆は存在しなかった。他藩と比較して、用人の地位が重い藩であって、加判の身分を兼帯していた。原則として3人の用人が常置され、江戸家老・城代家老・国家老をそれぞれ補佐をしていた。 特に一般の読者の目に触れやすい『大武鑑』は、民間出版の須原屋茂兵衛蔵版や出雲寺和泉掾蔵、松會蔵版などの武鑑を基礎として編集されたものであるが、同書には側用人と用人が一括して「用人」として記載されている。用人と側用人では職権と格式が、小諸藩では大きく異なった。藩主の枢機に与り、藩主家の家政を総覧した側用人は、用人より2階級以上、その格式が低く4名から6名程度が置かれていたことが多い。 小諸藩主牧野家では、番頭職に3代以上、就任すると、士分上禄の家柄である、と明治維新期には制度上定められていたので、狭義の上級家臣は番頭以上の者を指すと言えよう。 幕末・維新の動乱期を除き、中堅の筋目の藩士が加判職以上に、1代の期間で登りつめたことは一例に過ぎなかった。保守的な人事を行う一方で、比較的門閥が平均化しており、有能な者が一代家老に抜擢されたことも珍しくなかった。その反面、家老になれる機会を争って、お家騒動や派閥争いが起こりやすい土壌があった。 門閥が平均化した理由の一つとして、家臣筆頭・首席家老を勤める家柄であった2家が自滅したことが大きい。与板立藩以来の家老の家柄であった牧野八郎左衛門家が、享保期に当主の死後、6親等の遠縁を養子に立て相続を願い出るという末期養子としては最悪の形となり、さらに寛政期になって末期養子の孫の代に、金(かね)をめぐる不祥事(不正)があり閉門・減石となり失脚した。同じく与板立藩以来の家老の家柄であった加藤六郎兵衛家は、享保期に末期養子となり格式を下げたのみならず、末期養子の孫の代の文政期、小諸祇園祭りで不行跡があり失脚した。 維新の時点で家老の格式を連綿した家として、牧野家(牧野八郎左衛門家とその分家)、真木(槇)家(真木権左衛門家)、加藤家(加藤六郎兵衛家)、太田家があった。 廃藩置県の時点で士分格式128戸、卒分格式163戸があった。士分格式のうち21戸が上禄格式とされていた。
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