小諸藩牧野家の職制と重臣とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 小諸藩牧野家の職制と重臣の意味・解説 

小諸藩牧野家の職制と重臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 16:59 UTC 版)

小諸藩」の記事における「小諸藩牧野家の職制と重臣」の解説

小諸藩牧野氏の家臣団」を参照 小諸藩牧野家職制は、小さな藩であることもあり簡素であったので、家老職定数3・例外4)があったほか、中老職年寄役年寄衆存在しなかった。他藩と比較して用人地位が重い藩であって加判身分兼帯していた。原則として3人の用人常置され、江戸家老城代家老国家老それぞれ補佐をしていた。 特に一般読者目に触れやすい『大武鑑』は、民間出版須原屋茂兵衛蔵版出雲寺和泉蔵版などの武鑑基礎として編集されたものであるが、同書には側用人用人一括して用人」として記載されている。用人側用人では職権格式が、小諸藩では大きく異なった藩主枢機与り藩主家家政総覧した側用人は、用人より2階級以上、その格式低く4名から6名程度置かれていたことが多い。 小諸藩主牧野家では、番頭職に3代以上、就任すると、士分上禄家柄である、と明治維新期には制度定められていたので、狭義の上家臣番頭上の者を指すと言えよう。 幕末維新動乱期を除き中堅筋目藩士加判以上に、1代の期間で登りつめたことは一例に過ぎなかった。保守的な人事を行う一方で比較的門閥が平均化しており、有能な者が一代家老抜擢されたことも珍しくなかった。その反面家老になれる機会争ってお家騒動派閥争い起こりやすい土壌があった。 門閥平均化した理由一つとして家臣筆頭首席家老勤め家柄であった2家が自滅したことが大きい。与板立藩以来家老家柄であった牧野八郎左衛門家が、享保期に当主死後、6親等遠縁養子立て相続願い出るという末期養子としては最悪の形となり、さらに寛政期になって末期養子の孫の代に、金(かね)をめぐる不祥事(不正)があり閉門減石となり失脚した同じく与板立藩以来家老家柄であった加藤六郎兵衛家は、享保期に末期養子となり格式下げたのみならず末期養子の孫の代の文政期、小諸祇園祭り不行跡があり失脚した維新時点家老格式連綿した家として、牧野家牧野八郎左衛門家とその分家)、真木)家(真木左衛門家)、加藤家加藤六郎兵衛家)、太田家があった。 廃藩置県時点士分格式128戸、卒分格163戸があった。士分格式のうち21戸が上禄格式とされていた。

※この「小諸藩牧野家の職制と重臣」の解説は、「小諸藩」の解説の一部です。
「小諸藩牧野家の職制と重臣」を含む「小諸藩」の記事については、「小諸藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「小諸藩牧野家の職制と重臣」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小諸藩牧野家の職制と重臣」の関連用語

1
8% |||||

小諸藩牧野家の職制と重臣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小諸藩牧野家の職制と重臣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小諸藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS