明治維新期
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1868年10月27日(明治元年9月12日)、戊辰戦争において仙台藩が降伏。仙台藩が東照宮御祭礼を行うことは難しくなった。 1869年1月19日(明治元年12月7日)、明治政府が奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分を決定。仙台藩は62万石から28万石に減封され、藩財政が困窮する。 4月、仙台藩が禄制改革を実施し、寺社の知行地および扶持米を廃止。寺社の困窮も始まる。 1871年(明治4年)天長節奉祝祭 8月29日(旧暦7月14日)、廃藩置県実施。これにより寺社は藩の後ろ盾を完全に失った。 1872年(明治5年)、大町の商人が後ろ盾となって、荒巻神明社(現・櫻岡大神宮)が元柳町(現・西公園)に遷宮。櫻岡神宮祭礼を執り行う。 1874年(明治7年)、伊達政宗を祭神とする青葉神社創建。政宗の命日の5月24日に例祭を行うようになる(開始年は不明)。
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明治維新期
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慶応4年/明治元年(1868年)、新政府による徳川慶喜追討令が出されると、川田小一郎率いる土佐藩(高知藩)兵が伊予国に越境し、宇摩・新居・桑村・越智4郡の幕府領49か村を占領した。別子銅山も土佐藩により封鎖されたが、住友の別子銅山総支配人広瀬宰平が川田と川之江で会見して住友家による事業継続を要請し、新政府もこれを認めたことで、封鎖が解かれることになった。 明治4年(1871年)1月、高知藩支配下の旧幕府領(宇摩郡のうち23か村、新居郡のうち6か村、越智郡のうち8か村、桑村郡のうち10か村)は倉敷県に編入するよう指示が出されたが、当地の民心の動揺が激しいという理由で実際の事務引継ぎは行われなかった。同年4月14日、廃藩置県に際して当地は丸亀県に所属することとなり、10月3日に高知県から派遣された官吏は丸亀県の官吏に事務引継ぎを行った(廃藩置県の際の幕府領として、宇摩・新居・桑村・越智・風早の5郡50か村2万4000石余という記述もある)。ところが11月15日に行われた県の統合(第1次府県統合)によって当地は松山県(明治5年(1872年)2月に石鐵県に改名)所属に移された。 明治5年(1872年)3月2日に石鐵県が開庁すると、丸亀県派出官吏(権少属)小崎一義らは、当地の事務を石鐵県参事の本山茂任に引き継いだ。
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