明治維新後の茂昌
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茂昌は維新後も佐賀藩の請役の地位にあったが、藩政大改革を推進すべきとの藩内文政派の意見に反対して請役を辞し、明治2年(1869年)に佐賀から武雄に退去している。明治3年(1870年)に政府より上京を命ぜられ、兵部省で陸軍兵部大輔(陸軍少将)に就くことを勧められたが、「西郷隆盛が陸軍大将で、自分が陸軍少将では嫌だ」という理由で辞退し、武雄に戻る。明治4年(1871年)にも、佐賀藩主・鍋島直大(茂実)から東京に招かれ任官を勧められたが固辞して武雄に戻り、以後武雄で生涯を送る。 明治7年(1874年)2月、江藤新平や島義勇(茂昌の従兄弟)を中心に、佐賀県士族が佐賀の乱を起こす。乱の発生前には茂昌に対しても協力要請がなされたが、武雄出身の外務少輔山口尚芳の助言もあり茂昌は慎重な姿勢を崩さず、乱への加担を断っている。 2月14日、乱が本格化すると、反乱軍から武雄が戦闘に加わらなければ攻撃すると脅され、やむなく64名を反乱軍に送っている。一方で、武雄から長崎に家臣を派遣して大村藩、長崎県参事、出張してきていた司法省検事などに、乱に積極的に加わったわけではないことを説明し、乱にこれ以上加担しないことを約束している。26日、反乱軍鎮定の任を帯びた山口尚芳が長崎を経て武雄に着任、これにより武雄は政府軍側に属すことになった。茂昌は反乱軍に兵の派遣を強要され兵を出してしまったため、反乱の鎮圧後、謝罪文を提出、3月13日に佐賀の裁判所の尋問を受けている。その後もさまざまな取調べを経た後、4月21日、「逆徒に脅迫されその暴動を受けることを恐れ、一同協議の上一時出兵したけれども、政府軍に抵抗することなく、ついに賊軍を脱出し、まったくこれに与した事実がなかった」ことから、非常の特典として罪を免ぜられた。 昭和10年(1935年)、武雄鍋島家邸内で大砲18門と多数の小銃・刀剣が発掘されたが、これらは、佐賀の乱の後、政府から疑われないよう隠して埋めた武器だと考えられている。また弾薬の多くは、明治維新後そのまま火薬庫に保管していたようであり、明治31年(1898年)、この退蔵火薬の存在が「男爵鍋島茂昌火薬密蔵事件」として問題になっている。 茂昌は武雄では野に出て乗馬を試み、屋敷では謡曲や能楽を趣味としていたとされる。しかし、軍事についての関心は高かったようで、例えば明治27年(1894年)の日清戦争の際は、清国の李鴻章の戦略が甚だ稚拙であり、「李鴻章が遊軍を編成して函館や新潟を襲撃し鹿児島に出没でもすれば、日本は半分の兵力も敵地に送れなかっただろう」と述べたと言われている。 明治30年(1897年)、初めて洋装をして明治天皇に30年ぶりに拝謁し、維新時の勲功をもって男爵の地位を授けられた。 明治43年(1910年)、死去。
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