明治維新後の茂昌とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 明治維新後の茂昌の意味・解説 

明治維新後の茂昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 04:56 UTC 版)

鍋島茂昌」の記事における「明治維新後の茂昌」の解説

茂昌は維新後佐賀藩の請役の地位にあったが、藩政大改革推進すべきとの藩内文政派意見反対して請役を辞し明治2年1869年)に佐賀から武雄退去している。明治3年1870年)に政府より上京を命ぜられ、兵部省陸軍兵部大輔陸軍少将)に就くことを勧められたが、「西郷隆盛陸軍大将で、自分陸軍少将では嫌だ」という理由辞退し武雄に戻る。明治4年1871年)にも、佐賀藩主・鍋島直大(茂実)から東京招かれ任官勧められたが固辞して武雄戻り以後武雄生涯を送る。 明治7年1874年2月江藤新平島義勇(茂昌の従兄弟)を中心に佐賀県士族佐賀の乱起こす乱の発生前には茂昌に対して協力要請なされたが、武雄出身外務少輔山口尚芳助言もあり茂昌は慎重な姿勢崩さず、乱への加担断っている。 2月14日、乱が本格化すると、反乱軍から武雄戦闘に加わらなければ攻撃する脅されやむなく64名を反乱軍送っている。一方で武雄から長崎家臣派遣して大村藩長崎県参事出張してきていた司法省検事などに、乱に積極的に加わったわけではないことを説明し、乱にこれ以上加担しないことを約束している。26日反乱軍鎮定の任を帯びた山口尚芳長崎経て武雄着任、これにより武雄政府軍側に属すことになった。茂昌は反乱軍に兵の派遣強要され兵を出してしまったため、反乱の鎮圧後、謝罪文提出3月13日佐賀裁判所尋問受けている。その後さまざまな取調べ経た後、4月21日、「逆徒脅迫されその暴動を受けることを恐れ一同協議の上一時出兵したけれども、政府軍抵抗することなく、ついに賊軍脱出し、まったくこれに与した事実がなかった」ことから、非常の特典として罪を免ぜられた。 昭和10年1935年)、武雄鍋島家邸内大砲18門と多数小銃刀剣発掘されたが、これらは、佐賀の乱の後、政府から疑われないよう隠して埋めた武器だと考えられている。また弾薬多くは、明治維新そのまま火薬庫保管していたようであり、明治31年1898年)、この退蔵火薬存在が「男爵鍋島茂昌火薬密蔵事件」として問題になっている。 茂昌は武雄では野に出て乗馬試み屋敷では謡曲能楽趣味としていたとされる。しかし、軍事についての関心高かったようで、例え明治27年1894年)の日清戦争の際は、清国李鴻章戦略甚だ稚拙であり、「李鴻章遊軍編成して函館新潟襲撃し鹿児島出没もすれば日本半分兵力敵地送れなかっただろう」と述べたと言われている。 明治30年1897年)、初め洋装をして明治天皇30年ぶりに拝謁し維新時の勲功をもって男爵地位授けられた。 明治43年1910年)、死去

※この「明治維新後の茂昌」の解説は、「鍋島茂昌」の解説の一部です。
「明治維新後の茂昌」を含む「鍋島茂昌」の記事については、「鍋島茂昌」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「明治維新後の茂昌」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「明治維新後の茂昌」の関連用語

1
10% |||||

明治維新後の茂昌のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



明治維新後の茂昌のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの鍋島茂昌 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS