明治維新期の活動から晩年
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「清水次郎長」の記事における「明治維新期の活動から晩年」の解説
慶応4年(1868年)5月29日、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より東海道筋・清水港の警固役を任命され、この役を7月まで務めた。同年5月から6月には赤報隊に加わった黒駒勝蔵と駿府で対決している。 同年9月18日、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見・攻撃され、船に残っていた幕府軍の全員が交戦によって死亡した(咸臨丸事件)。戦いの後、戦死した乗組員の遺体は明治新政府の咎めを恐れて誰も処理しようとする者がなく、清水湾内に漂い、腐敗するまま放置された。これを見かねた次郎長は舟を出して遺体を収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍はこの収容作業を咎めたが、次郎長は「死ねばみな仏にござる。仏に官軍も賊軍もない」と突っぱね、翌年には「壮士墓」を建立した。 同年3月9日に旧幕臣の山岡鉄舟(後に静岡藩大参事となる)は駿府において西郷隆盛と面談し徳川慶喜の助命・徳川家名の存続を訴えているが、鉄舟は咸臨丸事件における次郎長の義侠心に深く感じ入り、これが機縁となって次郎長は明治後に山岡・榎本と交際したとされる。 明治2年(1869年)5月22日には二代目おちょうが新番組隊士により殺害される。明治4年(1871年)2月には旧久能山東照宮の神領である山林開墾を企図するが、大谷村の抵抗に遭い断念している。同年10月14日には甲斐で黒駒勝蔵が赤報隊脱退と幕府時代の罪状で処刑されている。 明治7年(1874年)には本格的に富士山南麓の開墾事業に着手する。明治12年(1879年)には山岡鉄舟らの協力を得て油田開発にも乗り出す。明治11年(1878年)には山岡鉄舟に依頼され天田愚庵を預かる。愚庵は明治15年(1882年)に次郎長の養子となる。明治13年(1880年)6月15日には三河平井一家の原田常吉や雲風竜吉らと手打ちを行う。雲風竜吉は黒駒勝蔵と同盟して次郎長とも敵対していた博徒で、同年6月24日付『函右日報』の記事ではこの手打ちを勝蔵と次郎長の和解として報じている。 博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑がある。 また有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊や遠州報国隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させないために弱い者をかばっている。 明治16年(1883年)に静岡県令に就任した奈良原繁は博徒の大刈込に着手、次郎長は明治17年(1884年)2月25日に「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕される。同年4月7日には懲罰7年・過料金400円に処せられ、井宮監獄(静岡市葵区井宮町)に服役する。街道警護役という大役を任せられて平民としては破格の帯刀も許されていた次郎長だったが、旧幕時代の賭博稼業までもを対象とされた重い刑罰だった。同年4月には養子の天田愚庵が次郎長の数奇な生涯を描いた『東海遊侠伝』を出版し、次郎長の名が全国に広まるきっかけとなった。静岡県令・関口隆吉などの尽力などにより、明治18年(1885年)に刑期の満了を待たずに仮釈放になった。 明治19年(1886年)東京大学医学部別課を卒業した植木重敏と横浜から土佐に向かう船上で知り合い、植木と同じ土佐須崎鍛冶町出身の渡辺良三と共に清水へ招聘し、済衆医院を静岡県有渡郡清水町に開設した。明治21年(1888年)7月19日には山岡鉄舟が死去し、谷中全生庵で行われた葬儀には清水一家で参列している。同年8月4日には富士山南麓開墾官有地払い下げを受け、開墾地の一部を高島嘉右衛門に売却している。 明治26年(1893年)、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。戒名は碩量軒雄山義海居士。墓碑に「侠客次郎長之墓」とあるは榎本武揚の筆である。
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