明治維新後の芳春院生家・篠原氏一族
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「篠原一貞」の記事における「明治維新後の芳春院生家・篠原氏一族」の解説
神奈川大学教授・松村敏「武士の近代-1890年代を中心とした金沢士族」には、「絵に描いたような高等教育を受けている」という表現で、篠原氏一族を例に挙げている。それによると一貞の嫡子・篠原専次郎(1858年-1924年)は大学南校(東京大学前身)に学び、金沢医学所・医学校の教諭となり、専次郎の長男・篠原一慶(1884年-1950年)は東京帝国大学英文科卒業後、第四高等学校(金沢大学の前身)教授となり、一慶の長男・篠原一恭(1911年-1997年)も京都帝国大学工学部卒業後、金沢工業大学教授・名誉教授となり、一慶の次男・篠原一俊(1920年-1946年)も東京帝国大学を卒業している。(『前田利家遺言状写』など加賀藩の一級の史料等は、この家の子孫から石川県に寄贈されているものも多い。加賀藩士「篠原家文書」)。 一方、長次系では、藩政期時代、本家、最後の当主となった第10代篠原忠篤(篠原忠、義昌院殿豪山良忠居士、1849年-1927年)は、明治になって乃木希典に邸の離れを金沢での止宿先として長期にわたって供出(忠篤の妹・珠子によると、離れから本宅に遊びに来た乃木希典には穏やかな物腰で「珠さん、これからは女性もしっかりと学問をしなければいけませんよ」と何度も言われたものだという)した後、東京に移住し、福地源一郎に語学を学んでいる。明治政府を相手に訴訟を起すも明治30年(1897年)には台湾に遊山している。(本家所有の美術品・古文書等は、難を逃れるために子孫が第二次世界大戦の最中、東京から福島の知人宅に移送・保管させるが、すべて行方不明・消失)。本家(篠原長次)6000石内、1000石ずつを分けた2家の「分家」のうち、長次の次男・篠原長良(篠原大学)の「家」からは、戸水寛人や犬養毅などと親交の深かった石川県議会議員・篠原譲吉(1875年-1919年)、ヴァイオリニスト・篠原虎一(1902年-1980年)親子が出ている。(子孫から史料等は石川県に寄贈「篠原家文書」、また、犬養毅関係のものは岡山県郷土文化財団「犬養木堂記念館」に寄贈されている)。
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