明治維新後の芳春院生家・篠原氏一族とは? わかりやすく解説

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明治維新後の芳春院生家・篠原氏一族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:44 UTC 版)

篠原一貞」の記事における「明治維新後の芳春院生家・篠原氏一族」の解説

神奈川大学教授松村敏武士の近代-1890年代中心とした金沢士族」には、「絵に描いたよう高等教育受けている」という表現で、篠原氏一族を例に挙げている。それによると一貞の嫡子篠原次郎1858年-1924年)は大学南校東京大学前身)に学び金沢医学所医学校教諭となり、専次郎長男篠原一慶(1884年-1950年)は東京帝国大学英文科卒業後、第四高等学校金沢大学前身教授となり、一慶長男篠原一恭(1911年-1997年)も京都帝国大学工学部卒業後、金沢工業大学教授名誉教授となり、一慶次男篠原一俊(1920年-1946年)も東京帝国大学卒業している。(『前田利家遺言状写』など加賀藩一級史料等は、この家の子孫から石川県寄贈されているものも多い。加賀藩士「篠原家文書」)。 一方、長次系では、藩政期時代本家最後当主となった第10代篠原忠篤(篠原忠、義昌院殿豪山良忠居士1849年-1927年)は、明治になって乃木希典に邸の離れ金沢での止宿先として長期わたって供出(忠篤の妹・珠子によると、離れから本宅遊びに来た乃木希典には穏やかな物腰で「珠さん、これから女性しっかりと学問をしなければいけませんよ」と何度も言われたものだという)した後、東京移住し福地源一郎語学学んでいる。明治政府相手訴訟起す明治30年1897年)には台湾遊山している。(本家所有美術品古文書等は、難を逃れるために子孫第二次世界大戦最中東京から福島知人宅に移送保管させるが、すべて行方不明消失)。本家篠原長次6000石内1000石ずつを分けた2家の「分家」のうち、長次の次男篠原長良篠原大学)の「家」からは、戸水寛人犬養毅などと親交深かった石川県議会議員篠原譲吉(1875年-1919年)、ヴァイオリニスト篠原虎一1902年-1980年親子出ている。(子孫から史料等石川県寄贈篠原家文書」、また、犬養毅関係のものは岡山県郷土文化財団「犬養木堂記念館」に寄贈されている)。

※この「明治維新後の芳春院生家・篠原氏一族」の解説は、「篠原一貞」の解説の一部です。
「明治維新後の芳春院生家・篠原氏一族」を含む「篠原一貞」の記事については、「篠原一貞」の概要を参照ください。

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