明治維新後の洛中・市民の京都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:09 UTC 版)
「洛中」の記事における「明治維新後の洛中・市民の京都」の解説
明治になり京都市内に路面電車網が張り巡らされると市民の間にはそれら外郭線に取り囲まれた範囲、すなわち「北大路通、東大路通、九条通および西大路通の内側が洛中」という共通認識が生まれたが、そうした認識も市電の消えた昭和50年代以降、次第に薄れ、現在市民の間で「洛中」が意識されることはほとんどない。 一方、伏見区や山科区など昭和になって京都市に編入された縁辺地区の住民の間では、今でも「京都に行く」「市内に出かける」という言い方がごく普通に使われる。この「京都」も「市内」も中京や下京などの京都市中心市街を指すのだが、もとよりその指し示す範囲は明確でない。しかし「洛中」という語が姿を変えて現代に生きていると考えれば極めて興味深い。つまるところ「洛中」あるいは「京中」という語は、その範囲が不明瞭なまま、その時代ごとの共通認識として受け継がれてきた語だと言える。
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