真島氏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 真島氏の意味・解説 

真島氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/26 03:05 UTC 版)

氏族 > 日本の氏族 >  > 小笠原氏 > 真島氏
真島氏
本姓 清和源氏小笠原氏流
家祖 大室時光(大井光長の長男)
種別 武家
出身地 信濃国埴科郡真島郷
主な根拠地 信濃国埴科郡真島郷
陸奥国大沼郡会津
出羽国置賜郡米沢
著名な人物 真島慈昌
支流、分家 川合氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

真島氏(まじまし)は、信濃国(現在の長野県)出身の武家間島馬島とも記す。

小笠原氏庶流大室氏の末裔とされる。

概要

真島氏は信濃国埴科郡真島郷(現在の長野市真島町真島)出身の一族である。真島は隣接する牛島地域と合わせて、平安時代には大室牧を形成していた。鎌倉時代中期には、小笠原氏庶流の大井光長の長男・大井時光が大室を相続し、大室氏の祖となったという。

大室氏は時光-光家-政光-政朝と続くが、誰が真島氏の祖かは不明。嘉暦4年(元徳元年、1329年)には、諏訪大社上社の五月会御射山の頭役のうち、六番右頭を命じられている。『諏訪御符礼之古書』享徳3年(1454年)条や長禄4年(1460年)には真島入道沙弥慈昌の名前が見える。真島慈昌は諏訪神社花会頭役を務め、その子孫と見られる

などの地頭も祭事の頭役をそれぞれ勤めている。大永3年(1523年)には、真島右衛門尉が眼病平癒祈願のために自身の屋敷内に薬師如来堂を建て、医王院を創立している。『上諏訪大宮同前宮瑞籬外垣造宮帳』によると、天正7年(1579年)2月6日には馬島大夫加賀守が瑞籬を用意したことが記されている[1]

戦国時代には村上義清越後上杉氏に従い、天正10年(1582年)7月13日には上杉景勝が真島与七郎の所領を安堵している。また、文禄3年(1594年)の上杉氏の「定納員数目録」に「二一七石真島民部、三五石真島源左衛門、七石真島平助」とある。当時の真島氏は当主が2代続けて「民部之亟」を名乗ったとされ、春日山城二の丸の書院番頭を務めた。慶長3年(1598年)には、景勝に従って真島氏も会津、次いで米沢へ移住した。米沢市南原の真島氏は帰農した子孫とされる[2]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 高橋伝造『北信濃の歴史 : 高橋伝造先生遺稿集』(高橋伝蔵、1972年)
  2. ^ 長野市誌編さん委員会編『長野市誌』第9巻 旧市町村史編 旧更級郡/旧埴科郡(長野市、2001年)



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  真島氏のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「真島氏」の関連用語

真島氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



真島氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの真島氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS