稲垣長茂とは? わかりやすく解説

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稲垣長茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/24 05:29 UTC 版)

 
稲垣 長茂
稲垣長茂像(天増寺蔵)
時代 戦国時代江戸時代初期
生誕 天文8年(1539年
死没 慶長17年10月22日1612年11月14日
別名 藤助、通称:平右衛門
墓所 群馬県伊勢崎市 天増寺
幕府 江戸幕府
主君 今川義元氏真牧野康成徳川家康
上野国大胡藩家老、上野国伊勢崎藩
氏族 稲垣氏
父母 父:稲垣重宗
重綱則茂、重大、大久保忠知正室、
石川政次正室ら
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稲垣 長茂(いながき ながしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名上野国伊勢崎藩初代藩主。鳥羽藩稲垣家初代。幼名は藤助、通称は平右衛門[1][2]

生涯

稲垣長茂の墓(群馬県伊勢崎市 天増寺)

三河稲垣氏清和源氏の流れをくみ、文明年間に伊勢国から三河国宝飯郡牛久保に移住し牛久保城主・牧野氏の家臣となったと伝わる[2]

天文8年(1539年)、三河国牛窪で稲垣重宗の長男として生まれる[1]。長茂は牧野成定のもとで、戦国大名今川氏に属して戦功を挙げた[1][2]

永禄8年(1558年)、牧野氏が徳川家康に恭順すると長茂も徳川氏の家人となった[1][2][3]。永禄9年(1559年)に牧野成定が死去するとその跡を継いだ幼少の牧野康成をたすけるため康成に付属させられた[2][3]天正18年(1590年)の小田原城の戦いでは大いに戦功を挙げた[1][2]。戦場では長茂は鬚を伸ばし朱具足を身に付けていたので「長茂の朱具足」と称せられたという[1]

同年8月、家康の関東入国に伴い、牧野康成は大胡藩2万石に封じられ、長茂は下野国足利寺岡村)、上野国山田(桐原村)、同勢多新川村)3郡より3千石を与えられた[1][2][3]。大胡では豊川稲荷妙厳寺9世・天室伊尭を開山として長興寺を開基した[2]

慶長5年(1600年)の会津征伐時には、牧野康成の大胡城を守備した[1][2]

慶長6年(1601年)、上野国佐位郡を加増されて1万石となり、伊勢崎藩を立藩して諸侯に列した[1][2][3]。伊勢崎では天増寺の開基となった[1]

慶長17年(1612年)10月22日、74歳で死去した[1][2][3]。家督は長男の重綱が継いだ[1]。墓所は群馬県伊勢崎市の天増寺[1][2][3]

系譜

父母

  • 父・稲垣重宗

子女

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 藩主人名事典編纂委員会 編『三百藩藩主人名事典』 1巻、新人物往来社、1986年7月10日、319頁。doi:10.11501/12193055ISBN 4-404-01367-1 (要登録)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』 2巻《福島県.茨城県 1.栃木県.群馬県》、新人物往来社、1988年2月1日、194-195頁。doi:10.11501/13247642ISBN 4-404-01490-2 (要登録)
  3. ^ a b c d e f 伊勢崎市 編『伊勢崎市史』 通史編2《近世》、伊勢崎市、1993年3月31日、21-22頁。doi:10.11501/9644707 (要登録)



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