稲垣長明
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時代 | 江戸時代後期(幕末) |
生誕 | 文政13年5月12日(1830年7月2日) |
死没 | 慶応2年9月29日(1866年11月6日) |
改名 | 亀之丞・鶴之助(幼名)、長明 |
戒名 | 義運全忠徳巌院 |
墓所 | 三重県鳥羽市鳥羽二丁目の常安寺 |
官位 | 従五位下、摂津守、信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶、家定、家茂 |
藩 | 志摩国鳥羽藩主 |
氏族 | 稲垣氏 |
父母 | 父:稲垣長剛 |
兄弟 | 長明、重興、勇三郎、吉郎、治 |
妻 | 榊原政養の娘・万寿 |
子 | 長行、長敬、長完(三男)、富三郎、 娘(大久保忠順継室)、娘(蒔田広孝継室) |
稲垣 長明(いながき ながあき[1]/ながあきら[2])は、志摩鳥羽藩の第6代藩主[2][1]。鳥羽藩稲垣家10代。幼名は亀之丞、鶴之助[2][1]。
生涯

文政13年(1830年)5月12日、第5代藩主稲垣長剛の長男として鳥羽城で生まれる[2][1]。天保13年(1842年)5月11日、父の隠居により家督を継いだ[2][1]。同年7月13日従五位下摂津守[1]。
嘉永6年(1853年)のペリー来航により、幕命で鳥羽沿岸の警備を務め、同時に軍備も増強した[2][1]。しかし大地震や安楽島大火、大津波による被害をたびたび受けて藩財政は悪化し、8万5200両の借金を作り上げた[2]。この窮境を打開するため、安政4年(1857年)には財政白書を出して財政の状況を領民に教えて協力を求めている[2]。
幕末期では佐幕派として行動し、元治元年(1864年)の禁門の変では京都に出兵して油小路門の守備を務めた[2][1]。慶応元年(1865年)第2次長州征伐のため自ら兵800を率いて大坂に出征するが、翌年第14代将軍徳川家茂が死去し、自身も病に倒れたため鳥羽に帰国[2][1]。9月29日に死去した[2][1]。享年37。跡を長男の長行が継いだ[2]。
系譜
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父母
- 稲垣長剛(父)
正室
子女
出典
固有名詞の分類
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