稲垣長剛
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化4年8月16日/18日(1807年9月17日/19日) |
死没 | 弘化4年2月14日(1847年3月30日) |
改名 | 鶴三郎・鶴之丞・露之丞(幼名)、長剛 |
戒名 | 全達天真大応院 |
墓所 | 群馬県伊勢崎市 天増寺 |
官位 | 従五位下、対馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉、家慶 |
藩 | 志摩国鳥羽藩主 |
氏族 | 稲垣氏 |
父母 | 父:稲垣長続、母:三浦前次の娘・勝 |
兄弟 | 長興、久五郎、勇三郎、長剛、環 |
妻 | 正室:小出英筠の娘・定 側室:アヤノ |
子 | 長明、重興(次男)、勇三郎、治、 娘(木下俊方正室のち京極高富正室)、 娘(本多正訥継室) |
稲垣 長剛(いながき ながかた[1][2])は、志摩鳥羽藩の第5代藩主[1][2]。鳥羽藩稲垣家9代。幼名は鶴三郎[1][2]。
生涯

文化4年(1807年)8月16日[2]/18日[1]、第4代藩主稲垣長続の四男として生まれる[1][2]。世嗣だった兄長興が廃嫡された後、文政元年(1818年)9月23日に長剛が世子となる[1]。12月29日に父が死去したため、文政2年(1819年)3月5日に家督を継いだ[1][2]。
しかし病弱であり若年でもあるため、隠居していた先々代藩主である祖父・長以が藩政を後見した[2]。
天保10年(1839年)に江戸屋敷が全焼して御用金を課すなどしている[1]。また、竹川竹斎や佐藤信淵を招いて『鳥羽領経緯記』をまとめさせるなど、悪化していた藩財政再建を目指したが、効果は無かった[1][2]。
天保13年(1842年)5月11日、家督を長男の長明に譲って隠居する[2]。弘化4年(1847年)2月14日に死去した[1][2]。享年41。
系譜
父母
正室
側室
- アヤノ[1]
子女
出典
固有名詞の分類
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