稲垣長剛とは? わかりやすく解説

稲垣長剛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/22 02:27 UTC 版)

 
稲垣 長剛
時代 江戸時代後期
生誕 文化4年8月16日/18日1807年9月17日/19日
死没 弘化4年2月14日1847年3月30日
改名 鶴三郎・鶴之丞・露之丞(幼名)、長剛
戒名 全達天真大応院
墓所 群馬県伊勢崎市 天増寺
官位 従五位下、対馬
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
志摩国鳥羽藩
氏族 稲垣氏
父母 父:稲垣長続、母:三浦前次の娘・勝
兄弟 長興、久五郎、勇三郎、長剛、環
正室:小出英筠の娘・
側室:アヤノ
長明、重興(次男)、勇三郎、治、
娘(木下俊方正室のち京極高富正室)、
娘(本多正訥継室)
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稲垣 長剛(いながき ながかた[1][2])は、志摩鳥羽藩の第5代藩主[1][2]。鳥羽藩稲垣家9代。幼名は鶴三郎[1][2]

生涯

稲垣長剛の墓(群馬県伊勢崎市 天増寺)

文化4年(1807年)8月16日[2]/18日[1]、第4代藩主稲垣長続の四男として生まれる[1][2]。世嗣だった兄長興が廃嫡された後、文政元年(1818年)9月23日に長剛が世子となる[1]。12月29日に父が死去したため、文政2年(1819年)3月5日に家督を継いだ[1][2]

しかし病弱であり若年でもあるため、隠居していた先々代藩主である祖父・長以が藩政を後見した[2]

文政7年(1824年)12月16日、従五位下対馬守[2]

天保10年(1839年)に江戸屋敷が全焼して御用金を課すなどしている[1]。また、竹川竹斎や佐藤信淵を招いて『鳥羽領経緯記』をまとめさせるなど、悪化していた藩財政再建を目指したが、効果は無かった[1][2]

天保13年(1842年)5月11日、家督を長男の長明に譲って隠居する[2]弘化4年(1847年)2月14日に死去した[1][2]。享年41。

墓所は群馬県伊勢崎市天増寺[1][2]

系譜

父母

正室

側室

子女

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 藩主人名事典編纂委員会 編『三百藩藩主人名事典』 3巻、新人物往来社、1987年4月10日、258頁。doi:10.11501/12190274ISBN 4-404-01402-3 (要登録)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 鳥羽市史編さん室 編『鳥羽市史』 上、鳥羽市、1991年3月25日、361-366頁。doi:10.11501/13133180 (要登録)




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