稲垣重昭
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛永13年(1636年) |
死没 | 元禄16年6月19日(1703年8月1日) |
改名 | 重祥、重昭、空山(法号) |
戒名 | 寂照院岳翁空山 |
墓所 | 東京都中野区上高田の保善寺 |
官位 | 従五位下、信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 大坂加番 |
主君 | 徳川家綱、綱吉 |
藩 | 三河国刈谷藩主 |
氏族 | 稲垣氏 |
父母 | 父:稲垣重昌、母:西尾忠永の娘 |
妻 | 正室:稲垣茂門の娘 |
子 | 娘(皆川広逵継室)、重富、 娘(溝口直武正室)、昭倫(次男) |
稲垣 重昭(いながき しげあき)は、三河刈谷藩の第2代藩主。鳥羽藩稲垣家3代。幼名・重祥[1]。
生涯

寛永13年(1636年)、刈谷藩初代藩主稲垣重綱の長男・稲垣重昌の長男として生まれる[1]。父・重昌は稲垣家の世子であったが、重昭誕生の前年に死去した[1]。正保4年(1647年)10月、将軍・徳川家光に初めて拝謁[1]。
承応3年(1654年)3月3日、祖父の死去により家督を継いだ[1]。このとき、叔父の稲垣茂門の子・稲垣昭友に3000石を分与したため、稲垣家は2万3000石から2万石の大名となる[1]。
明暦元年(1655年)12月に従五位下・信濃守に叙位・任官する[1]。寛文元年(1661年)7月に大坂加番に任じられる[1]。寛文11年(1671年)9月23日、叔父の稲垣重氏に新田1500石を分与した[1]。貞享5年(1688年)2月23日に長男の重富に家督を譲って隠居した。
元禄16年(1703年)6月19日に死去[1]。享年68。戒名は寂照院岳翁空山、墓所は東京都中野区の保善寺[1]。
系譜
父母
正室
- 稲垣茂門の娘[1]
子女
出典
固有名詞の分類
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