開校前史「藩校から小学校へ」とは? わかりやすく解説

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開校前史「藩校から小学校へ」(1824-1873)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 15:07 UTC 版)

鳥羽市立鳥羽小学校」の記事における「開校前史「藩校から小学校へ」(1824-1873)」の解説

江戸時代末の鳥羽藩では、5代藩主稲垣長剛文政7年1824年)に藩校尚志館」を鳥羽城二の丸陸続きの鍋ヶ崎に開校した規定上は庶民入学も可能であったが、実際に庶民入学はほとんどなく、藩士の子弟の教育の場であった。 版籍奉還後も尚志館存続し明治3年10月5日グレゴリオ暦1872年10月29日)には「小学校」を併設して8歳になる子供入学させ庶民入学認めた併設小学校午前四書五経素読午後に珠算教授し、その合間習字を行わせたが、やはり児童武士の子供だけであった明治4年3月グレゴリオ暦1873年4月)には武道排して三計塾を併設し、勉学奨励行った。しかし鳥羽藩引き継いだ鳥羽県度会県統合されることになり、明治5年4月18日グレゴリオ暦1872年5月24日)にすべての土地人民度会県引き渡すことになったため、尚志館小学校・三計塾はすべて閉鎖した明治5年5月1日グレゴリオ暦1872年6月6日)、尚志館代わる教育機関として鳥羽有志常安寺学寮借り受けて日新塾を開き子供たち教育施した。この私塾一部の子弟のみが通う学校であり、学制発布に伴う新教育制度への移行のため、1873年明治6年2月1日閉鎖した

※この「開校前史「藩校から小学校へ」(1824-1873)」の解説は、「鳥羽市立鳥羽小学校」の解説の一部です。
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