開校前史「藩校から小学校へ」(1824-1873)
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江戸時代末の鳥羽藩では、5代藩主・稲垣長剛が文政7年(1824年)に藩校「尚志館」を鳥羽城二の丸と陸続きの鍋ヶ崎に開校した。規定上は庶民の入学も可能であったが、実際には庶民の入学はほとんどなく、藩士の子弟の教育の場であった。 版籍奉還後も尚志館は存続し、明治3年10月5日(グレゴリオ暦:1872年10月29日)には「小学校」を併設して8歳になる子供を入学させ庶民の入学を認めた。併設の小学校は午前に四書五経の素読、午後に珠算を教授し、その合間で習字を行わせたが、やはり児童は武士の子供だけであった。明治4年3月(グレゴリオ暦:1873年4月)には武道を排して三計塾を併設し、勉学の奨励を行った。しかし鳥羽藩を引き継いだ鳥羽県が度会県に統合されることになり、明治5年4月18日(グレゴリオ暦:1872年5月24日)にすべての土地と人民を度会県に引き渡すことになったため、尚志館・小学校・三計塾はすべて閉鎖した。 明治5年5月1日(グレゴリオ暦:1872年6月6日)、尚志館に代わる教育機関として鳥羽の有志が常安寺の学寮を借り受けて日新塾を開き、子供たちに教育を施した。この私塾も一部の子弟のみが通う学校であり、学制発布に伴う新教育制度への移行のため、1873年(明治6年)2月1日に閉鎖した。
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