酒井忠世領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 12:49 UTC 版)
次いで那波郡を領有したのは、徳川秀忠に側近として仕えていた酒井忠世である。忠世は、父の酒井重忠が与えられた武蔵川越近辺に5000石の所領があった。慶長6年(1601年)2月、重忠が前橋に移封された際に、忠世も5000石を加増の上移封されて那波1万石の領主となった。忠世は、慶長10年(1605年)に在京料として近江国内(栗太郡・日野郡・野洲郡などの内)に5000石を加増、慶長14年(1609年)に那波郡善養寺村(現在の前橋市東善町・西善町付近)など5000石の加増を受け、都合2万石の領主となって、善養寺を居所とした。なお、善養寺村周辺は、中世に善養寺庄という荘園があった土地である。 元和2年(1616年)、忠世は勢多郡・佐位郡の2郡内で3万2000石を加増された。この中には、稲垣長茂が転出した後の伊勢崎領や、牧野忠成が転出した後の大胡領が含まれる。元和2年の加増により、『角川日本地名大辞典』では「当藩は廃藩になったと見てよいだろう」としている。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』でも、忠世が伊勢崎に5万2000石で入封した、とする。 元和3年(1617年)、酒井重忠が死去すると忠世は家督を継ぎ、従来の知行地と父の遺領である前橋藩領を併せ、8万5000石の大名として前橋城に移った。
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