酒井忠能の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 16:59 UTC 版)
酒井忠能が上野伊勢崎藩より3万石で入った。この忠能は江戸幕府初期の老中酒井忠世の孫で、同じく老中・大老を務めた酒井忠清の弟である。 忠能は寛文10年(1670年)、領内に検地を実施したが、これは青山時代に治水工事が行なわれて新田開発が進み、再検地の必要性があったためといわれる。だが延宝6年(1678年)の検地で年貢を増徴し、雑税として家・窓・妻・板敷・家畜にまで諸運上を課し、それらが未納の際には家財や俵、石臼、農具を没収するという百姓に対して苛酷な政治を行なったため、百姓は餓死したり乞食になったり、領地から逃散したりして遂には領内で領民による一揆が発生した(芦田騒動)。だが忠能は庄屋の訴えを聞き入れず、百姓は総決起して幕府に強訴するも、当時は忠清が絶頂の時であり幕府は首謀者を処刑し、延宝7年(1679年)に忠能を駿河国田中藩へ移封させるという喧嘩両成敗を行なって騒動を沈着させた。この時の忠能の移封を小諸の民衆は喜び、「地獄極楽さかい(酒井)にて、日向出てゆくおき(隠岐守=西尾氏)は極楽」という落首が読まれた。
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