酒井憲二の研究による見直しと再評価
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「甲陽軍鑑」の記事における「酒井憲二の研究による見直しと再評価」の解説
国語学者の酒井憲二は1990年代から『軍鑑』に関する国語学的、文献学的、書誌学的検討を行い、酒井は軍鑑の研究水準を大きく引き上げたとされる。酒井は、『軍鑑』の様々な版本と写本を、文献学的・書誌学的に照らしてそれぞれ系統的に整理し、テキストの底本とすべき写本を確定させた。酒井の軍鑑研究は、『甲陽軍鑑大成 第四巻 研究編』(汲古書院、1995年1月、ISBN 4-7629-3329-5)にまとめられている。また、『甲陽軍鑑大成 本文編上・下』を版行した。 酒井の研究の主要な結論を以下にまとめる。 『軍鑑』は本来全23冊構成であること。 『軍鑑』の原本は、主に虎綱の口述・口語りを猿楽者・大倉彦十郎が筆記することで成立したと考えられる。虎綱の死後は、甥の春日惣次郎によって書き継がれた。しかし武田氏滅亡以降、惣次郎は浪々の苦境にあり、原本は傷んでいった。それをおそらく小幡光盛から入手した小幡景憲は、傷んだ原本の書写に努め、元和7年(1621年)頃に写本を作り上げた(この写本は現存しない)。景憲の書写態度は、傷んで写し難い箇所は「切れて見えず」という注釈を190数箇所もしているように原本に忠実であり、加筆や潤色などがあっても、最小限に留められたであろうと判断できる。 『軍鑑』本来の本文は、息の長い一センテンス文、類語の積み重ねによる重層表現、新興語、老人語(古語)、俗語、甲斐・信濃の方言や庶民が使用する「げれつことば」など、室町末期の口語り的要素を色濃く残している。このような文章を、小幡景憲の世代が真似て書くことはできない。景憲の役割は、謹直な写し手、つまり写本の作成者であって、通説のような編纂者や著者では有り得ない。 幾多の合戦を信玄と共にした虎綱ならば犯すはずのない誤りが少なくないと言われるが、「存じ出だし次第書するにつき、年号、よろづ不同にして、前後みだりに候とも」(巻一末尾)、「人の雑談にて書き写し候へば、定めて相違なる事ばかり多きは必定ばれ共」(巻五)などの自ら断っている通りであって、史料として限界があるのは当然である。特に口述筆記という史料の性格上、年月に記憶の錯誤があるのは必然である(誰しも10年、20年前の出来事の日時を正確に語るのは難しい)。むしろ、その誤謬が何故起こったのかを考察すべきで、誤謬があるからといって『軍鑑』の価値を下げることはできない。 軍鑑は、「勝頼公御代のたくらべになるべき」事を願って、信玄遺臣の立場から新君勝頼公とその側近跡部勝資・長坂光堅への陳言書として書かれたものを根幹としている。 この酒井の国学的研究を嚆矢に、平山優、小和田哲男、黒田日出男らが実証的研究の立場から『軍鑑』を再評価した。『軍鑑』を厳しく評価する笹本正治も、武家故実や戦国人の習俗などの記述については史実を伝えていると判断を下している。 また、近代以降の『軍鑑』の価値を決定づけた田中論文にも批判的検討が加えられた。田中論文は、書誌学的・文献学的手続きが不十分で、今日の学問的水準からすれば説得力ある考証・論証とは言いがたく、そもそもこの論文は田中が30歳の若い時に記した5ページ強の小論に過ぎない。田中が指摘した誤りも後の研究で克服されている。田中が指摘した誤りの一例に「長閑斎」問題がある。これは天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いの前日の日付に比定される「長閑斎」宛武田勝頼書状(「神田孝平氏旧蔵文書」)において、武田領国のうちのいずれかの城を守備を任されていた「長閑斎」が勝頼に飛脚を派遣した内容である。従来、この「長閑斎」は勝頼側近で長篠合戦において主戦論を主張した長坂光堅(釣閑斎)に比定され、1960年(昭和35年)には高柳光寿『長篠之役』において『甲陽軍鑑』の誤りを示す実例として指摘された、これに対し、2009年(平成21年)には平山優が「長閑斎孝」『戦国史研究』58号において「長閑斎」は駿河久能城主の今福長閑斎(『軍鑑』では浄閑斎)に比定されることを指摘する。他の軍鑑収録文書も、多くは『戦国遺文 武田氏編』などに原本や良質な写しが確認できる。それ以外の文書も、幾つか検討を要する文章が含まれ日時や人物の官位などに誤りや改変が加えられてはいるものの、内容は史料批判すれば史料として使え、軍鑑の史料的価値が低い証拠には成り得なくなっている。
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