稲垣則茂とは? わかりやすく解説

稲垣則茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/21 16:52 UTC 版)

 
稲垣 則茂
時代 江戸時代前期
生誕 天正13年(1585年
死没 寛文5年(1665年
別名 平助、喜左衛門
墓所 群馬県伊勢崎市 天増寺
主君 牧野忠成忠成
大胡藩長峰藩越後長岡藩家老
氏族 稲垣氏(平助家)
父母 父:稲垣長茂
兄弟 重綱則茂、重大、大久保忠知正室、
石川政次正室ら
茂幸
養子:牧野忠清(牧野忠成五男)
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稲垣 則茂(いながき のりしげ)は、江戸時代前期の武将大胡藩主(のち長峰藩主越後長岡藩主牧野家の家臣。稲垣家(平助家)初代。通称は平助喜左衛門[1][2]

略歴

稲垣則茂の墓(伊勢崎市 天増寺)

天正13年(1585年)、牧野家の家臣・稲垣長茂次男[要出典]として生まれる[1]慶長6年(1601年)、父が上野国佐位郡1万石を領して伊勢崎藩を立藩し、兄・重綱は父に従ったが則茂は大胡藩に残り牧野忠成に仕えた[2]

元和元年(1615年)の大坂夏の陣では大いに戦功を挙げた[1][2]。そのため大胡藩の筆頭家老に任じられて家臣団の第1グループである平助組を率いた[2]

元和2年(1616年)7月に牧野氏が越後国長峰藩移封となると、長峰城地整備の責任者を務めた[2]

元和4年(1618年)の越後長岡藩移封でも城地整備の責任者を務めた[2]。その功により、3村2400石を与えられている[2]。忠成の五男・忠清を養子に迎えていたが[1]、後に実子・茂幸が誕生している[1]

寛文5年(1665年)、死去[1][2]。墓所は伊勢崎市天増寺[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g 家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』 4巻《新潟県.静岡県.愛知県.三重県 1.滋賀県.奈良県》、新人物往来社、1988年7月25日、8頁。doi:10.11501/13236014ISBN 4-404-01531-3 (要登録)
  2. ^ a b c d e f g h 家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』 2巻《福島県.茨城県 1.栃木県.群馬県》、新人物往来社、1988年2月1日、195頁。doi:10.11501/13247642ISBN 4-404-01490-2 (要登録)

参考文献

  • 『三百藩藩主人名事典』 新人物往来社
  • 『江戸三百藩藩主総覧』 新人物往来社




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