事件発生後とは? わかりやすく解説

事件発生後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 06:46 UTC 版)

クリス・ギュフロイ」の記事における「事件発生後」の解説

事件発生当日、ギュフロイの母カリンは夜11時半過ぎに自宅居間銃声聞いていたが、それが息子の命を奪ったのであることには思い至らなかった。カリンベルリンの壁ほど近いトレプトウ地区のジュートオスト・アレーに住んでいたので、警備兵発砲には慣れていたためであった。さらにギュフロイは、周囲には「プラハ旅行に行く」と告げていた。 ギュフロイは親元独立して1人暮らしをしていたので、カリンがその死を知らされたのは2日後のことであったその日カリンのもとに制服姿の男が訪れて警察署への同行命じた警察署カリン1時間半わたって息子について尋問受けたが、この時点ではまだその死について知らなかった尋問終わりに近づいたころ、カリン息子が「軍事施設への襲撃」によって死亡したことを告げられた。その知らせ聞いたカリン衝撃受けて崩れ落ちそうになったが、何とか持ちこたえた2月21日西ベルリン新聞ベルリン新聞」は、ギュフロイの死亡公告掲載した。この公告には死亡の場所や状況などについての言及はなかったが、2月23日にギュフロイをバウムシューレンヴェーダー墓地埋葬することが載せられていた。ギュフロイの埋葬式当日100人以上の市民参列し、しかも墓地周辺立ち入り禁止措置とっていたにもかかわらず西ドイツメディア取材訪れた。しかも同じ時刻に、銃撃現場運河挟んで反対側の西ベルリン地点に、ギュフロイ追悼十字架設置されていた。「ベルリン新聞」への死亡公告掲載について、シュタージ最高責任者エーリッヒ・ミールケホーネッカー宛て書簡で「シュタージがそれを阻止しようとしたが失敗した」と記述していた。カリン身内始め友人職場の同僚など周囲人々2月5日の夜、息子たち起こった事態について話し、その死が銃撃による殺人であることが公然のものとなっていた。 ベルリンの壁での殺人について西側諸国強く非難し東ドイツ国際的な立場悪化した当時経済慢性的な停滞状況に陥っていたため、西側諸国からの借款依存していた東ドイツにとって、この事件大きな打撃となった1989年4月3日ホーネッカー了解により国境での発砲命令撤廃され発砲許されるのは「緊急避難」の場合限定された。ホーネッカー東ドイツ国際的な立場失墜恐れ、さらに西側諸国からの資金供与必要だったため、発砲命令撤廃踏み切った。エドガー・ヴォルフルムはその著書ベルリンの壁 ドイツ分断歴史』(2009年)で、国境警備隊対す新たな指令書について以下のように記述した。 「現下政治情勢のもとでは、銃器を使うよりも、人間がひとり消えてもらうほうがよい」 ベルリンの壁における最後発砲は、1989年4月8日のことであった。この日、2人若者がショセー通り検問所から西側への亡命試みた国境警備兵は警告射撃行い、この2人亡命断念している。

※この「事件発生後」の解説は、「クリス・ギュフロイ」の解説の一部です。
「事件発生後」を含む「クリス・ギュフロイ」の記事については、「クリス・ギュフロイ」の概要を参照ください。

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