「社会の木鐸」宣言
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「アール・エフ・ラジオ日本」の記事における「「社会の木鐸」宣言」の解説
ラジオ関東は開局以来「洋楽のラジ関」の通称で親しまれ、同局がイベントで出展するブースは自慢の洋盤ジャケットコレクションが掲示された。 その後も女性アイドル番組など幅広く扱っていた 他、1970年代後半には吉崎四平プロデューサーがコールサインの「JORF」を「JOロックフレンズ(Rock Friends)」と読ませ、ロック音楽に力を入れた。 創業に尽力した河野一郎の意を受けて経営に当たった遠山景久は1977年(昭和52年)に巨人戦ホームゲームの独占中継権を獲得したことに乗じて、ワンマン体制を強化。社名を「アール・エフ・ラジオ日本」に変更した。1982年(昭和57年)、「社会の木鐸」宣言を行い、若者向け番組を大幅に削減。反共主義色の濃い論説、演歌の多い中高齢層対象の番組を中心に編成を一変させ、タクシーやトラックの運転手、一部保守的リスナー層に浸透した一方で全体的には大幅な聴取率低下を招いたため、多くのスポンサーが撤退して、経営悪化が深刻になった。 神奈川の県域放送として免許交付されたが南関東全域(神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県)で聴取できる実態 があり、遠山時代は東京支社に社員の9割が配置されるなど、東京支社が実質的な本社・演奏所として機能した。1986年(昭和61年)、横浜市土地開発公社が払い下げた横浜市中区の公有地(現在の登記上の本社所在地)が「地元の放送は防災公報等の公共性がある」ことを考慮して、実勢価格の半額以下で任意譲渡されたにも関わらず、建築計画は演奏所、送信機、アンテナ塔が無い、単なるテナントビルである事が暴露され、放送設備等を備えた計画に変更。社会的非難を浴びた。 1987年(昭和62年)に社長を駒村秀雄に譲った後も会長として従前権勢を揮っていた遠山は大喪の礼前後の歌舞音曲自粛を経た1989年(平成元年)4月以降、若者向け番組の完全排除に踏み切る。意に沿わぬ局員を徹底的に左遷・解雇して、アナウンサーをキーパンチャーに異動して告訴され、管理職研修を自衛隊で行い、最盛期には150名以上居た社員を30数名まで減じるなど、恐怖政治的な人事・労務策を敢行することで労使関係は険悪な状況となり退職・移籍者が相次いだ。その間は残った社員が遠山への不満を募らせていく事態となり、経営末期の1993年(平成5年)は打ち切られた番組が21本と経営破綻は現実味を帯びていった。
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