コミンテルンでの活動
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「ヘンドリクス・スネーフリート」の記事における「コミンテルンでの活動」の解説
オランダに帰国後、ホラント共産党の指導者はオランダ領東インドにおけるスネーフリートの活動の方法を批判し、スネーフリートは少し疎外されていた。その後、スネーフリートは労働組合運動に努め、1920年の鉄道ストライキを組織するのを助けた。同年には東インド共産党の代表として、モスクワのコミンテルンの第2回会議にも出席した。東インド共産党は、東インド社会民主主義同盟(ISDV)の後身の組織である。 ウラジーミル・レーニンは彼に強い印象を受け、彼をコミンテルン代表として中国に派遣した。彼は中国共産党を組織化するのに貢献した。1921年7月にスネーフリートはロシア共産党のウラジーミル・ネイマンと共に、上海で開催された中国共産党第一回大会に出席した。この日を中国共産党は、公式な中国共産党創立日としている。 スネーフリートは1921年12月に広西省桂林に訪れていた孫文に会い、中国国民党とソビエト政権の連携について意見交換し、さらに中国国民党と中国共産党が協力関係を築くことを提案した。彼は1922年4月上旬には上海に移動し陳独秀ら中国共産党員に接触し、共産党員が国民党に加入する方式の協力関係の構築を提案した。陳らはこの提案に強く反発した。中国共産党の掲げるマルクス主義と中国国民党の掲げる三民主義の間には革命の階級闘争への考え方に根本的な食い違いがあり、たとえ協力関係を築いたとしても労働運動・農民運動を主体とした共産党の自由な活動が大きく制限されることを恐れたのである。 1922年4月下旬にスネーフリートはモスクワに行き、コミンテルン中央執行委員会に国共合作の承認を求め、同年7月末に承認を得る。8月にスネーフリートは上海に戻り、陳独秀ら中国共産党幹部に対して共産党員が国民党に加入する方式の国共合作を承認するよう迫った。コミンテルンの決定に対し中国共産党が反対することは中央集権的なボリシェヴィズムの観点からも考えられず、陳ら共産党員は渋々承認した。しかし共産党員達には強い反発が残った。 1922年8月25日スネーフリートは上海に逃れていた孫文と会談し、ソビエト政権から中国国民党への軍事援助が約束された。その後まもなくして陳独秀が孫文を訪ね、中国国民党の組織改革を条件として、自らの国民党への加入を提案した。孫文は了承し、陳独秀、李大釗らが中国国民党に加入した。しかしながら、スネーフリートの中国滞在中に一般の共産党員による国民党への加入は実現しなかった。 スネーフリートが中国を去った後、コミンテルンはミハイル・ボロディンを派遣した。ボロディンは中国国民党の政治顧問となり、党規約や政治綱領の改定と組織機構の改革に関して孫文へ助言を行った。孫文は前記の諸改革を実行し、国共合作実現への条件を整えた。1924年1月20日中国国民党第一次全国代表大会が開催され大会宣言が発せられた。中国共産党の正史ではこの日を国共合作の開始された日と位置づけている。 スネーフリートに対し、当時の中国共産党は良い印象を持たなかった。中国国民党の孫文と個人的に接触して中国共産党との協力を主張したためといわれている。スネーフリートにはこの策は合理的なように見えたが、結局は上手くいかず失敗に終わることとなる。1925年3月に孫文が死去し、1926年3月中山艦事件が起こり、中国共産党員に対する弾圧が始まった。1926年7月蔣介石は中国国民党の党首となった。 スターリン派とトロツキー派の中国革命の方針を巡る対立の結果、スターリンの主流派の主張が優勢となり、蔣介石による共産党員への弾圧に対しソビエト政権の暗黙の了解が行われた。 1927年8月江西省南昌で中国共産党による中国国民党に対する武装闘争が開始された。以後中国共産党と中国国民党の武装闘争が続くこととなる。
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