コミンテルンの人民戦線とは? わかりやすく解説

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コミンテルンの人民戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 14:26 UTC 版)

人民戦線」の記事における「コミンテルンの人民戦線」の解説

コミンテルンから1928年除名されレフ・トロツキーは、ナチス伸張していた1930年時期スターリン提唱しドイツ共産党実践していた「社会ファシズム論」社会民主主義ファシズム双生児であり、ファシストより優先して打倒すべき対象とする理論方針)を批判してナチス対抗する社会民主主義共産党統一戦線」を呼びかけた。しかし、トロツキー呼びかけ一顧だにされず、ドイツ共産党ナチス敵対するどころか同盟組んでストライキなどを行いナチス政権獲得ドイツ共産党社会民主党諸共非合法化により消滅する。 「反共ソ連抹殺」を掲げナチス・ドイツ対す危機感から、スターリン「社会ファシズム論」から人民戦線推進路線転換するが、トロツキーはこのスターリン転換を「社会主義革命全面的放棄によるブルジョア政党との野合統一戦線戯画化」と批判する実際に人民戦線運動時のフランス共産党は、巻き起こるストライキ運動を「権利獲得運動」に抑え社会主義革命直結させるような方針控えたと言える。あるいは、レオン・ブルム首班指名協力し閣外からブルム内閣協力し続けることになる。 あるいは、スペイン共和国政府においてスペイン共産党は、その支配地域において地主制の廃止工場労働者所有推進し反ファシズム戦争社会主義革命へ」を掲げアナーキストや非コミンテルン系のマルクス主義政党CNT急進派POUMなど)に対して一貫して革命より反ファシズム戦争勝利を優先するべき」あるいは「急激な革命中産階級反ファシズム戦線から離反させる」と主張したスペイン共産党は、共和国支配地域では「ブルジョア政党」も含めたアサーニャ首班とする人民戦線政府参加する一方でスペイン潜入したソ連秘密警察援助の下でCNT急進派POUM、CNT-FAIなどの社会主義革命派を弾圧し数多く活動家抹殺するアメリカでは1936年大統領選の際、人民戦線戦術基づいてアメリカ共産党がノーマン・トーマス率いアメリカ社会党対し共同での出馬呼びかけたが拒否されている。当時共産党路線ニューディール対す批判的支持掲げるなど愛国主義的・ポピュリスト的であり、この路線当時党首アール・ブラウダーの名前から「ブラウダー主義」と呼称される。 人民戦線運動1935年7月モスクワ開催されコミンテルン第7回大会提唱されコミンテルン方針転換もたらしたが、1939年8月ソ連スターリン独ソ不可侵条約締結することで終結させられるコミンテルンスターリン)の方針は、反ファシズムよりも「アメリカ・イギリス帝国主義への反対」が強調されコミンテルン支部各国共産党反ファシズム運動内部混乱もたらされた。また、フランス共産党党員3分の1が「独ソ協定」に反発して離脱し政府からは「利敵団体」として非合法化された。 1940年ナチス・ドイツによるフランス侵攻という段階に至っても、(のちに捏造される伝説とは違ってフランス共産党は反ナチ・レジスタンス運動を開始するどころか当初占領当局機関紙ユマニテ』の発行請願しアナーキストトロツキスト名簿ナチス渡したりしている。 1941年ナチス・ドイツソ連侵攻によって、フランス共産党武装してレジスタンス開始するフランス共産党レジスタンスは「ドイツ兵を一兵でも多くソ連から引き離せ」というスターリン指令によって、その開始当初からナチ将校射殺繰り返す激し戦術採用する。それに対すナチス側の弾圧も「疑わしき処刑」と熾烈極めたことから、フランス共産党は「銃殺恐れぬ党」としてフランス社会権威取り戻すことになる。また、フランス共産党は「愛国主義インターナショナリズム融合」をレジスタンス運動におけるスローガン掲げドゴール派らブルジョアジーレジスタンス組織とも協調した。あるいは、レジスタンス大衆組織として「国民戦線」を結成し、主に中産階級取り込み図った1944年ナチス放逐した国民的なレジスタンス運動は、共産党権威高まりあいまってブルジョアジーすら社会主義希求すると言われたような状況現出させる。しかし、モスクワ亡命していたフランス共産党指導者モーリス・トレーズ帰国するなりレジスタンス武装解除命じ資本主義体制再建協力することになる。 イタリアで同様の現象起こり、反ファシズム・パルチザンとして武装した小作農民による土地占拠農民自治動きイタリア共産党武装解除させ、イタリアキリスト教民主党との協調による資本主義体制再建手を貸した戦後のフランス・ドゴール政権ではフランス共産党書記長トレーズが、またイタリアで共産党トリアッティいずれも副首相として入閣した。 あるいは、この「反ファシズム世界戦争」の時期には、植民地での民族解放運動スターリン反対する。それは「反ナチス同盟」によるアメリカ・イギリスとの協調最優先にしたスターリン考えに基づくものであり、アメリカ共産党広島・長崎への原爆投下を「反ファシズム正義行為」と賞賛し、戦後の日本共産党GHQ一時的に解放軍」と規定したような情況作り出すことになる。 以上のことから、「人民戦線戦術とは、ソ連自由主義諸国影響力を持つため、資本家中産階級共産党、あるいはアメリカイギリスなどソ連協調する統一戦線政策という側面がある。これは、フランスイギリスアメリカにおける共産主義勢力の拡大といった一定の成功収めた人民戦線運動の発想は、戦後の仏伊における挙国一致政権1970年代チリ人民連合連合政権などの統一戦線政党共闘などにも継承されている。日本においては日本共産党1970年代での「民主連合政府」の提案や、「『核兵器には資本家でも反対する』からその一点共闘する」という1980年代の「反核統一戦線」、2010年代の「国民連合政府」の提案などで、この人民戦線の方法論受け継がれている。

※この「コミンテルンの人民戦線」の解説は、「人民戦線」の解説の一部です。
「コミンテルンの人民戦線」を含む「人民戦線」の記事については、「人民戦線」の概要を参照ください。

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