間島の金日成
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1935年(昭和10年)、中国共産党中央は、コミンテルンの人民戦線統一戦略に基づき、東北人民革命軍を、あらゆる反日抗満武装団との合作をめざし再編する方針を打ち出した。したがって、共産主義には属さない武装団体も、抗日の一点で一致すれば、共闘し、吸収することをめざすこととなった。 詳細は「東北抗日聯軍」を参照 さらには、民生団事件による消耗もあって、東北人民革命軍は、1936年(昭和11年)の春ころより、東北抗日聯軍に再編された。ここから、金日成のパルチザン(のちの朝鮮労働党満州派、別名「国外パルチザン派」)活動が本格的に始まったとされる。 なお、東北抗日聯軍は民生団事件の反省から、中国共産党への朝鮮人支持基盤をつなぎとめる方策として、在満韓人祖国光復会 を組織する方針をたてた。それに基づき、金日成部隊は咸鏡南道甲山郡を中心に活動していた共産主義グループ(のちの朝鮮労働党甲山派、別名「国内パルチザン派」)と連絡をとり、共闘関係を築いた。甲山グループは、右派(反共・民族主義系)・左派・武闘派・穏健派問わず、朝鮮独立を謳っていた政治団体の多くが朝鮮半島の外で活動する中で、唯一、朝鮮に留まり活動していた事で、独立を羨望する朝鮮人の中でも一目置かれていたともいわれる。 東北抗日聯軍のパルチザン活動の中で、もっとも注目を集めたとされるのが、1937年(昭和12年)の普天堡の戦いだが、甲山グループの手引きで成功したこの襲撃は、略奪、拉致、放火を伴い、東北人民革命軍のころと変わっていない。徐大粛著『金日成 思想と政治体制』によれば、「金日成部隊の兵力補充は、中国人苦力および朝鮮人農民を徴用し、村や町を襲撃するたびに人質にとった若者に訓練を施しては兵士に仕立てた。また食料の調達でもっとも一般的なのは、人質をとって富裕な朝鮮人に金を強要する方法だった。求めに応じない場合には、人質の耳を切り落とすと脅し、それでも応じない場合には首をはねるといって人々を恐怖に陥れた」ということである。 確かに金日成のパルチザン活動は、朝鮮半島で大きく報道されたが、「おおむねその蛮行、略奪を非難する内容で、襲われる満州の朝鮮人農民の苦しみに同情を寄せたものが多かった」状態で、決して英雄扱いではなかった。それには、シベリアの金擎天のころとは事情がちがい、朝鮮総督府の報道検閲が厳しくなっていたこともあった。 戦闘、補給困難、脱走、帰順などで、東北抗日聯軍は消耗していき、金日成を含んだ残党はソ連領に逃げ込んだ。彼らは第88独立狙撃旅団 (ソ連軍)に編入されたが、対日戦に参加することはなく、北朝鮮を解放したのはソ連だった。
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