間島の金日成とは? わかりやすく解説

間島の金日成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:51 UTC 版)

抗日パルチザン」の記事における「間島の金日成」の解説

1935年昭和10年)、中国共産党中央は、コミンテルンの人民戦線統一戦略に基づき東北人民革命軍を、あらゆる反日抗満武装団との合作をめざし再編する方針打ち出した。したがって共産主義には属さない武装団体も、抗日一点一致すれば、共闘し、吸収することをめざすこととなった詳細は「東北抗日聯軍」を参照 さらには民生団事件による消耗もあって、東北人民革命軍は、1936年昭和11年)の春ころより、東北抗日聯軍再編された。ここから金日成パルチザン(のちの朝鮮労働党満州派、別名「国外パルチザン派」)活動本格的に始まったとされる。 なお、東北抗日聯軍民生団事件反省から、中国共産党への朝鮮人支持基盤つなぎとめる方策として、在満韓人祖国光復会組織する方針をたてた。それに基づき金日成部隊咸鏡南道甲山郡中心に活動していた共産主義グループ(のちの朝鮮労働党甲山派、別名「国内パルチザン派」)と連絡をとり、共闘関係築いた甲山グループは、右派反共民族主義系)・左派武闘派穏健派問わず朝鮮独立謳っていた政治団体多く朝鮮半島の外で活動する中で、唯一朝鮮留まり活動していた事で、独立羨望する朝鮮人中でも一目置かれていたともいわれる東北抗日聯軍パルチザン活動の中で、もっとも注目集めたとされるのが、1937年昭和12年)の普天堡の戦いだが、甲山グループの手引きで成功したこの襲撃は、略奪拉致放火伴い東北人民革命軍のころと変わっていない。徐大粛著『金日成 思想政治体制によれば、「金日成部隊兵力補充は、中国人苦力および朝鮮人農民徴用し、や町を襲撃するたびに人質にとった若者訓練施して兵士仕立てた。また食料調達でもっとも一般的なのは、人質をとって富裕な朝鮮人に金を強要する方法だった。求め応じない場合には、人質の耳を切り落とす脅し、それでも応じない場合には首をはねるといって人々恐怖に陥れた」ということである。 確かに金日成パルチザン活動は、朝鮮半島大きく報道されたが、「おおむねその蛮行略奪非難する内容で、襲われる満州朝鮮人農民苦しみ同情寄せたものが多かった」状態で、決し英雄扱いではなかった。それには、シベリア金擎天のころとは事情がちがい、朝鮮総督府報道検閲厳しくなっていたこともあった。 戦闘補給困難、脱走帰順などで、東北抗日聯軍消耗していき、金日成含んだ残党ソ連領に逃げ込んだ。彼らは第88独立狙撃旅団 (ソ連軍)編入されたが、対日戦参加することはなく、北朝鮮解放したのはソ連だった。

※この「間島の金日成」の解説は、「抗日パルチザン」の解説の一部です。
「間島の金日成」を含む「抗日パルチザン」の記事については、「抗日パルチザン」の概要を参照ください。

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