間島協約と吉会鉄路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/26 07:31 UTC 版)
詳しくは間島や白頭山も参照のこと 本線自身は山岳地帯の軽便鉄道に過ぎないが、間島地域を巡る国境紛争及びそれに付随する外交問題が強く影響している。 間島は中国大陸と朝鮮半島の境界に位置し、有史以来中国と朝鮮との間で帰属変更を繰り返す地域であった。また一部期間を除き中国大陸を統一した王朝でなく、北方諸民族による地方政権の支配地となっていたため、しばしば朝鮮側との間で紛争となっていた。 清朝が成立すると間島は清朝の版図とされ満洲族の故地として保護、1644年には「封禁令」を出し他民族の立ち入りや開墾を厳禁した。 しかし実際には事実上の国境とされた豆満江を越えて、朝鮮側の農民による進出が相次いだ。清朝は1712年に李氏朝鮮と協議、分水嶺に境界標を立て国境を確定した。その後も朝鮮側からの密入国は続いていたが、両国の間では大きな問題として認識されることはなかった。 だが清末の1881年、清朝が間島の開発を推進すべく方針を転換し封禁令を解除すると、境界標の解釈を巡り再び国境問題が再燃し(間島問題)、両国間の協議が続けられることとなった。 日露戦争後に朝鮮半島への影響を日本が強め、1905年に朝鮮を保護国とすると、間島問題は日清間で協議されることとなった。日本側は利権拡大を目指し朝鮮民族が居住している事実をもって朝鮮領土とすることを主張したが清朝は強く反発、結局1909年、間島の領有権は清国に帰属するが、各種権益を日本が保有するという内容の「間島協約」が締結された。 間島協約で規定された利権の中には鉄道利権も含まれ、その一つに吉林から国境を越えて朝鮮の会寧を結ぶ「吉会鉄路」の建設があった。これは満州と朝鮮を結ぶ連絡路線として、長春と吉林を連絡する「吉長鉄路」の延長線とする方式で構想されていたものである。 また同時期にロシアに対抗すべく国際貿易港として整備が進められていた日本海側の清津と会寧を連絡していた人力軽便鉄道であった清会軽便鉄道を、蒸気動力を採用し間島の中心地である局子街(延吉)まで延伸する計画も立案されていた。 それまで間島地域の交通網整備が遅れていたことから日本の商品の流通が阻害されていたばかりか、北満州に関しても品目によってはロシア領内のウラジオストクを経由することを余儀なくされていたが、日露戦争の結果、日本が日本海の海上物流において主導権を掌握、また清津港の整備も行われたことにより、鉄道を間島地区まで敷設し吉会鉄路と連結することで沿線の経済振興を図り、ロシア勢力下に置かれていた北満州での経済的優位性を確保できることから、政府は計画に対しては調査中と回答したが計画自体には賛同した。 2年後の1911年7月、日本政府による現地調査が行われ「吉林会寧間鉄道線路踏査報告書」が提出されると、鉄道敷設計画はより具体化され、敦賀-清津間を定期船で連絡し、清津-会寧間の鉄道と吉会鉄路を活用することで日本・朝鮮・満州を連絡する具体的な構想が立案された。 こうした状況下で吉会鉄路予定線上に建設されたのが、天図軽便鉄路である。
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