朝鮮半島への影響
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朝鮮半島では不平両班や被差別階級、困窮した農民、盗賊による反乱、蜂起が起きた。および朝鮮軍によるその鎮圧、また朝鮮王朝内部の政争による粛清や処刑などが行われ、朝鮮社会の矛盾が噴出した。 朝鮮は極端に中央集権化が進み階級差別と過酷な搾取によって農民が毎年春には必ず飢える(「春窮」)ほどで、国土の開発も怠っていた。また、流通経済が未発達で民衆の生活は自給自足が基本であり銀などの貨幣による取引が成立せず朝鮮民衆とは物々交換などで食料の調達を行わなければならなかった。戦争が開始されると、朝鮮・明軍・日本軍が食料の現地調達を行った。食料不足と治安悪化のために農民が耕作を放棄することで流民となった。 明軍の兵糧供給は朝鮮側が提供したため、朝鮮政府は過酷な食料調達を行った。このため明軍の略奪と合わせて日本軍が侵攻していない平安道も荒廃して人口が激減している。また朝鮮軍より明軍に優先的に食料供給が行われたことから、朝鮮軍の戦意低下は少なからぬものがあった。朝鮮に駐屯した明軍による朝鮮民衆に対する無秩序な略奪なども横行し、朝鮮の民衆は日本を一番の侵略者としながらも、抑圧してきた朝鮮王朝に反乱を起こし、明軍も第二の侵略者であるとして憎んだ。そのため、豊臣軍の首都漢城府に到着より以前に逃亡するために朝鮮王を乗せた馬車が城門から出発より前に、朝鮮の民らが宮殿の中に侵入朝鮮王の財産を入れてあった倉庫を略奪した。それだけでなく、景福宮、昌徳宮、昌慶宮など三つの宮殿と6つの政府建築物など大小官庁に放火した。特に身分差別に苦しんだ朝鮮の下層民は混乱に乗じて、不満を持っていた朝鮮王朝の官庁や身分を示す書類の所蔵倉庫を焼き払ったためとされる。民衆の放火によって煙と炎が空に上り、1ヶ月経っても火災が続いたほどだった。当時、漢城の王宮と官庁が放火された情況を証言した李曁(大司諫)は「民衆の心を見れば賊の刃よりも残酷だから、とても恐ろしい」との記録している。李曁は隋の煬帝と唐の太宗の故事を引用しながら、中国の大軍も高句麗に侵攻したが勝てなかった反面、朝鮮が日本軍の攻勢に無残にやられたことは民心が乱れて離反して久しいし、諸将がうわさだけ聞いても逃走したせいで進撃できなかったためと指摘し、支配層と民衆間の乖離や綱紀の緩みを嘆している。 戦功の証明としてはなそぎも行われたが、当初は日本の国内戦同様に非戦闘員である民衆は保護の対象であり殺戮は禁止されていた。慶長の役においては鼻の数で戦功が計られ、老若男女を問わず非戦闘員も対象とされたとされる。削がれた鼻は軍目付が諸大名から受け取り、塩漬けにした上で日本に送られ、のちに耳塚にて弔われたとされる。朝鮮軍に投降し捕えられた日本の将兵(降倭)は当初すぐに処刑されていたが、降倭を利用することを目的として1591年10月に降倭を勝手に殺すことを禁じる命令が出された。以後、降倭のうち砲術や剣術などの技能を有する者は訓錬都監や軍器寺に配属され、降倭からの技能習得が図られた。これにより日本の火縄銃の技術が朝鮮に伝わることとなった。また特殊技能のない降倭は北方の国境警備兵や水軍の船の漕ぎ手とされた。降倭の中には朝鮮王朝に忠誠を誓って日本軍と戦うなどして、朝鮮姓を賜り優遇されて朝鮮に定着する者もいた。 戦役以後、朝鮮では日本に対する敵意が生まれ、平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ、貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に行動を制限された。一方、朝鮮の両班階層(支配層)の間では明の援軍のおかげにより朝鮮は滅亡を免れたのだという意識(「再造之恩」)が強調され、明への恩義を重視する思想が広まり、属国としての立場が強くなった。これは中国との間での朝鮮外交の針路に多大な影響を与えることとなった。 また、文化面でも朝鮮半島に多大な影響をもたらした。唐辛子が文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島にももたらされ、キムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いた。また軍事面では、多くの火器の製造・運用技術が日本人から伝わり、刀剣類についても日本刀を原型とした倭刀等の派生武具が作られた。現在でも多くの城郭跡が朝鮮半島各地に残され日本人による統治の足跡を残している。文禄・慶長の役は現在の朝鮮半島国家(朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国)における反日感情の原点とされる。
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朝鮮半島への影響
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「李氏朝鮮の学問#性理学」および「朝鮮の儒教#李氏朝鮮の宋明理学」も参照 朱子学は13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。そのため朱子学は今日まで朝鮮の文化に大きな影響を与えている。特に李氏朝鮮時代、国家教学として採用され、朱子学が朝鮮人の間に根付いた。日常生活に浸透した朱子学を思想的基盤とした両班は、知識人・道徳的指導者を輩出する身分階層に発展した。 もともと朱子学を朝鮮に伝えたのは、高麗の末期の白頤正(1247年 - 1323年)であるとされ、その後は権陽村・鄭三峰らが崇儒抑仏に貢献した。李氏朝鮮時代に入ると朝鮮朱子学はより発展した。その初期には、死六臣・生六臣や趙光祖など、特に実践の方向(政治・文章・通経明史)で展開し、徐々に形而上学的な根拠確立の問題追求に向かうようになった。 16世紀には李滉(李退渓)・李珥(李栗谷)の二大儒者が現れ、より朱子学の議論が深められた。李退渓は「主理派」と呼ばれ、徹底した理気二元論から理尊気卑を唱え、その思想は後に嶺南地方で受け継がれた。一方、李栗谷は「主気派」とされ、気発理乗の立場から理気一途説を唱え、その思想は京畿地方で受け継がれた。のち、権尚夏の門下の韓元震と李柬が「人物性同異」の問題(人と動物などの性は同じか否か)をめぐって論争になり、主気派の「湖学」と主理派の「洛学」の間で湖洛論争が交わされた。 朝鮮の朱子学受容の特徴として、李朝500年間にわたって、仏教はもちろん、儒教の一派である陽明学ですら異端として厳しく弾圧し、朱子学一尊を貫いたこと、また、朱熹の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を徹底的に制度化し、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変するなど、朱子学の研究が中国はじめその他の国に例を見ないほどに精密を極めたことが挙げられる。こうした朱子学の純化が他の思想への耐性のなさを招き、それが朝鮮の近代化を阻む一要因となったとする見方もある。
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