朝鮮半島への影響とは? わかりやすく解説

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朝鮮半島への影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「朝鮮半島への影響」の解説

朝鮮半島では不平両班被差別階級困窮した農民盗賊による反乱蜂起起きた。および朝鮮軍によるその鎮圧、また朝鮮王朝内部政争による粛清処刑などが行われ、朝鮮社会矛盾噴出した朝鮮極端に中央集権化進み階級差別過酷な搾取によって農民毎年春には必ず飢える(「春窮」)ほどで、国土開発怠っていた。また、流通経済未発達民衆の生活は自給自足基本であり銀などの貨幣による取引成立せず朝鮮民衆とは物々交換などで食料調達を行わなければならなかった。戦争開始されると、朝鮮明軍日本軍食料現地調達行った食料不足治安悪化のために農民耕作放棄することで流民となった明軍兵糧供給朝鮮側提供したため、朝鮮政府過酷な食料調達行ったこのため明軍略奪合わせて日本軍侵攻していない平安道荒廃して人口激減している。また朝鮮軍より明軍優先的に食料供給が行われたことから、朝鮮軍戦意低下少なからぬものがあった。朝鮮駐屯し明軍による朝鮮民衆対す無秩序な略奪なども横行し朝鮮民衆日本を一番の侵略者しながらも、抑圧してきた朝鮮王朝反乱起こし明軍第二侵略者であるとして憎んだ。そのため、豊臣軍首都漢城府到着より以前逃亡するために朝鮮王を乗せた馬車城門から出発より前に朝鮮の民らが宮殿中に侵入朝鮮王の財産入れてあった倉庫略奪したそれだけでなく、景福宮昌徳宮昌慶宮など三つ宮殿6つ政府建築物など大小官庁放火した。特に身分差別苦しんだ朝鮮下層民は混乱乗じて、不満を持っていた朝鮮王朝官庁身分を示す書類所蔵倉庫焼き払ったためとされる民衆放火によって煙と炎が空に上り1ヶ月経って火災続いたほどだった。当時漢城王宮官庁放火された情況証言した曁(大司諫)は「民衆の心を見れば賊の刃よりも残酷だから、とても恐ろしい」との記録している。曁は隋の煬帝と唐の太宗故事引用しながら、中国大軍高句麗侵攻した勝てなかった反面朝鮮日本軍の攻勢無残にやられたことは民心乱れて離反して久しいし、諸将がうわさだけ聞いて逃走したせいで進撃できなかったためと指摘し支配層民衆間の乖離綱紀緩みを嘆している。 戦功の証明としてはなそぎも行われたが、当初日本国内同様に非戦闘員である民衆保護対象であり殺戮禁止されていた。慶長の役においては鼻の数で戦功計られ老若男女問わず非戦闘員対象とされたとされる。削がれた鼻は軍目付諸大名から受け取り塩漬けにした上で日本送られ、のちに耳塚にて弔われたとされる朝鮮軍投降し捕えられた日本将兵(降倭)は当初すぐに処刑されていたが、降倭を利用することを目的として1591年10月に降倭を勝手に殺すことを禁じ命令出された。以後、降倭のうち砲術剣術などの技能有する者は訓錬都監や軍器寺に配属され、降倭からの技能習得図られた。これにより日本火縄銃技術朝鮮に伝わることとなった。また特殊技能のない降倭は北方国境警備兵や水軍の船の漕ぎ手とされた。降倭の中には朝鮮王朝忠誠誓って日本軍と戦うなどして、朝鮮姓を賜り優遇され朝鮮定着する者もいた。 戦役以後朝鮮では日本対す敵意生まれ平和な貿易関係を望む対馬宗氏朝鮮王朝強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ貿易訪れた日本人釜山設けられ倭館行動制限された。一方朝鮮両班階層支配層)の間では明の援軍のおかげにより朝鮮滅亡免れたのだという意識(「再造之恩」)が強調され、明への恩義重視する思想広まり属国としての立場強くなった。これは中国との間での朝鮮外交針路多大な影響与えることとなったまた、文化面でも朝鮮半島多大な影響もたらした唐辛子文禄・慶長の役日本軍によって朝鮮半島にももたらされキムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いた。また軍事面では、多く火器製造・運用技術日本人から伝わり刀剣類についても日本刀原型とした倭刀等の派生武具作られた。現在でも多く城郭跡が朝鮮半島各地残され日本人による統治足跡残している。文禄・慶長の役現在の朝鮮半島国家朝鮮民主主義人民共和国大韓民国)における反日感情原点とされる

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朝鮮半島への影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 01:04 UTC 版)

朱子学」の記事における「朝鮮半島への影響」の解説

李氏朝鮮の学問#性理学」および「朝鮮の儒教#李氏朝鮮の宋明理学」も参照 朱子学13世紀には朝鮮伝わり朝鮮王朝国家統治理念として用いられた。朝鮮それまで高麗国教であった仏教排し朱子学唯一の学問官学)とした。そのため朱子学今日まで朝鮮の文化大きな影響与えている。特に李氏朝鮮時代国家教学として採用され朱子学朝鮮人の間に根付いた日常生活浸透した朱子学思想的基盤とした両班は、知識人道徳的指導者輩出する身分階層発展した。 もともと朱子学朝鮮伝えたのは、高麗末期の白頤正(1247年 - 1323年)であるとされ、その後・鄭三峰らが崇儒抑仏に貢献した李氏朝鮮時代に入ると朝鮮朱子学はより発展した。その初期には、死六臣・生六臣や趙光祖など、特に実践方向政治文章通経明史)で展開し徐々に形而上学的な根拠確立問題追求に向かうようになった16世紀には李滉李退渓)・李珥李栗谷)の二大儒者が現れ、より朱子学議論深められた。李退渓は「主理派」と呼ばれ徹底した理気二元論から理尊気卑を唱え、その思想は後に嶺南地方受け継がれた。一方李栗谷は「主気派」とされ、気発理乗の立場から理気一途説を唱え、その思想京畿地方受け継がれた。のち、権尚夏門下韓元震李柬が「人物同異」の問題(人と動物などの性は同じか否か)をめぐって論争になり、主気派の「湖学」と主理派の「洛学」の間で湖洛論争交わされた。 朝鮮朱子学受容特徴として、李朝500年間にわたって仏教はもちろん、儒教一派である陽明学ですら異端として厳しく弾圧し朱子学一尊貫いたこと、また、朱熹の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を徹底的に制度化し、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変するなど、朱子学研究中国はじめその他の国に例を見ないほどに精密極めたことが挙げられるこうした朱子学純化が他の思想への耐性のなさを招き、それが朝鮮近代化阻む要因となったとする見方もある。

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