朝鮮半島の解放・独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
朝鮮半島は冷戦の影響によって南部がアメリカ、北部がソ連のそれぞれ占領地となる(連合軍軍政期)。1945年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾して連合国への降伏を決定した(日本の降伏)。 朝鮮総督府では翌8月15日の玉音放送前に独立運動家の呂運亨らと交渉して、行政機構を移管して混乱を最小限に防止しようと計画を立案する。呂運亨は朝鮮建国準備委員会を結成して朝鮮人民共和国の樹立を宣言するが、日本軍に代わってソウルを含む南部をアメリカ軍が、北部をソ連軍が軍事統治を敷いた。 ソ連が占領した北朝鮮では金日成がソ連軍の士官として朝鮮北部の平壌に入城し、アメリカが占領した南朝鮮では李承晩や金九などの独立運動家がソウルへ戻った。アメリカの支持を背景に李承晩が権力基盤を固める一方で、金九の大韓民国臨時政府や、呂運亨の朝鮮人民共和国は実現せずに頓挫する。呂運亨は李承晩派の人物により暗殺され、解放の3年後に李承晩と金日成によって南北に2つの国家が建国された。金九は南北統一国家を主張し続け、独立後に暗殺された。 連合国には、降伏後の日本についても朝鮮半島と同様に分割統治計画が存在していたが実行はされなかった。ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、実質上アメリカ軍中心)のもとで、日本国政府を通じた間接統治が実施された。 そのような中、1946年2月3日に朝鮮人を主体とする共産主義勢力により日本人数千人が虐殺される通化事件が起きた。1948年4月3日に起きた済州島四・三事件では、多数の済州島民が南朝鮮政府の虐殺から避難するため日本に密入国した。また、経済的な成功を目指して南朝鮮から日本に密入国する者も多数いた。密入国者による外国人登録証の偽造が横行したことが、指紋押捺制度の設立理由とされ、これが後の時代には差別的待遇として指紋押捺拒否運動となった。 「特別永住者」および「難民の地位に関する条約」も参照
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