独立運動家
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独立運動家とは、既存の国家が領有または支配する特定の地域において、既に滅亡した国家を再建し、または新たな国家を建てるために独立運動を指導する活動家のことである。北米のジョージ・ワシントン、インドのマハトマ・ガンディー、南米のシモン・ボリバルなどが知られる。
独立運動の背景
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- 独立戦争の項によれば、既存の国家が“支配する領土において、特定の地域の住民がその国家からの自治権獲得やその拡大を超えて、国家からの分離・独立を要求する運動”が独立運動である。
- 独立運動の節によれば、その地域を支配する既存の国家(または中央政府)と独立を求める勢力との間で内戦となる例も多く、また、独立戦争ともいわれる。多くの場合、一定の領域に多様な民族・宗教による複数の集団が混ざった状態で居住しているため、当該地域の住民の中でも、独立(および自治の強化)に賛成するもの(地域で多数派となるもの)と反対するもの(少数派となるもの)との対立が発生するといわれる。
- 分離主義の項によれば、中央と言語も習慣も異なる地方が、独立を目指すことを「分離主義」と呼んでいる。他方、植民地革命の項によれば、植民地・従属国における独立運動について、主に武装闘争によって本国からの独立を勝ち取る闘いを「植民地革命」と呼んでいる。
世界の独立運動家一覧
このような背景の下で、それぞれの地域・時代により、さまざまな性格、思想をもった独立運動家が登場した。その一部は建国の父となった。
- 北米の独立運動家
- 中南米の独立運動家
- トゥパク・アマル2世(ペルー)
- トゥパク・カタリ(ボリビア)
- トゥーサン・ルーヴェルチュール(ハイチ)
- ジャン=ジャック・デサリーヌ(ハイチ)
- ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ(ボリビア)
- マヌエル・ベルグラーノ(アルゼンチン)
- ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア(パラグアイ)
- マテオ・プマカワ(ペルー)
- シモン・ボリーバル(ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア)
- アントニオ・ホセ・デ・スクレ(ベネズエラ、エクアドル、ボリビア)
- ホセ・アルティーガス(ウルグアイ、アルゼンチン)
- ホセ・デ・サン・マルティン(アルゼンチン、チリ、ペルー)
- ベルナルド・オイギンス(チリ)
- フアン・パブロ・ドゥアルテ(ドミニカ共和国)
- ズンビ・ドス・パルマーレス(ブラジル)
- チラデンチス(ブラジル)
- ジョゼー・ボニファシオ(ブラジル)
- フランシスコ・モラサン(中央アメリカ)
- ウィリアム・ランポート
- ミゲル・イダルゴ・イ・コスティーリャ(メキシコ)
- ホセ・マリア・テクロ・モレーロス・イ・パボン(メキシコ)
- グアダルーペ・ビクトリア
- アグスティン・デ・イトゥルビデ(メキシコ)
- ホセ・マルティ(キューバ)
- エリック・ウィリアムズ(トリニダード・トバゴ)
- モンゴル(外蒙古)の独立運動家
- ドグソミーン・ボドー
- ソリーン・ダンザン
- ダムディン・スフバートル
- ホルローギーン・チョイバルサン
- エルベクドルジ・リンチノ
- アフリカ・西アジアの独立運動家
関連項目
独立運動家
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「スバス・チャンドラ・ボース」の記事における「独立運動家」の解説
1920年にはインド高等文官試験を受験した。ボース自身の回想では試験には合格したものの、このままではイギリス植民地支配の傀儡となるだけだと判断して資格を返上した。ただし、二次試験の乗馬試験で不合格となったという異説も存在する。いずれにせよこの頃からボースはインド独立運動に参加するようになっていった。 1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。ボース自身は「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を抱いており、ガンディーの非暴力主義には強く反対していた。 ボースは、この頃イタリアで台頭して、イギリスのウィンストン・チャーチルをはじめ世界中で喝采と注目を浴びていたファシズムに魅了され、1926年には「ファシズムと共産主義の新たな総合をインドは実現する」べきであると主張した。そのためイギリス当局は彼を明白なファシストと見なしていた。ボースは、議会内で反ファシストから圧力を受けると自身の見解を穏健化させ、ファシズムではなくトルコのケマル・アタテュルクによる権威主義に関心を向けるようになった。 ボースは1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも逮捕・投獄され、ビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたが、ボースの独立志向とその影響力を危惧した英印植民地政府の手により免職された。 その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、勢力を伸ばした。ガンディーは組織の分裂を心配し、1938年度の国民会議派議長に推薦した。ボースはインド独自の社会主義「サーミヤワダ」を提唱し、若年層や農民、貧困層の支持を集めた。この成果に自信を持ったボースは翌年の国民会議派議長に立候補した。議長はガンディーの指名によって決定されることが慣例になっていたが、1年間の議長職だけでは満足しなかったボースは翌年以降も議長職に留まろうと考え、党内初の議長選挙を実施した。この選挙でボースは、ガンディーの推薦するボガラージュ・パタビ・シタラマヤ(英語版)に大差をつけて勝利した。 しかしこの行為はガンディーの支持を失わせることになり、ガンディーを支持する国民会議派の多数派からの支持も失わせることになった。ボースの動きを危険視した党幹部は彼に不信任を突きつけ、議長辞任を余儀なくされた。さらに3年間役職に就けない処分も受けた。議長退任後には前進同盟を結成し、独自の活動も開始した。またボースは統一インドとしての独立を望んでおり、独立派内でのムスリムとの対立が激化する中で、パキスタンが分離して独立する事態を憂慮していたという。ボースは政府から危険人物と見なされ、第二次世界大戦が勃発するとカルカッタの自宅に軟禁された。
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