朝鮮建国準備委員会
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朝鮮建国準備委員会 | |
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米軍の訪問を受ける建準済物浦(仁川)支部 | |
各種表記 | |
ハングル: | 조선건국준비위원회 |
漢字: | 朝鮮建國準備委員會 |
発音: |
チョソンコングッチュンビウィウォヌェ (チョソンコングクチュンビウィウォンフェ) |
RR式: | Joseon Geonguk Junbi Wiwonhoe |
MR式: | Chosŏn Kŏnguk Chunbi Wiwŏnhoe |
朝鮮建国準備委員会(ちょうせんけんこくじゅんびいいんかい)は、1945年8月15日から9月7日までの連合軍軍政期に呂運亨などが中心となって朝鮮総督府から行政権を引き継ぐために作った組職。略称は「建準」[1]。本部はソウルの桂洞に置かれた。
概要
1945年8月15日夜、呂運亨は1年前の1944年8月に自分が結成した「建国同盟」を母体にして建国準備委員会(建準)を発足させた。委員長に呂運亨、副委員長に安在鴻、組織部長に鄭栢、総務部長に崔謹愚、財務部長に李奎甲、宣伝部長に趙東祜、武警部長に權泰錫らが就いた。ちなみに「朝鮮建国準備委員会」という名称の発案者は安在鴻である。
呂運亨の実弟・呂運弘は当時の構成について、「共産党員である極左。非共産主義的な左翼、すなわち穏健な社会主義者。安在鴻や李奎甲らの右翼。無条件に呂運亨を兄貴分と慕い支持する張権と宋圭桓などに分けることができた」としている[2]。
1945年9月4日には全体会議が開かれて、副委員長に弁護士の許憲を立てるなど執行委員改編があった。9月6日夜、建準は京畿女子高講堂で約1000名余が参加する中、安在鴻ら民族派が脱退し、共産主義者や社会主義者が主導権を掌握し、「朝鮮人民共和国(人共)」樹立を宣言した。建準はその政府組織(人民委員会)となり、10月7日の人民共和国執行委員会をもって発展的に解消した[3]。
綱領
- 私たちは完全な独立国家の建設を期する。
- 私たちは全民族の政治的・社会的基本要求を実現することができる民主政権の樹立を期する。
- 私たちは一時的過渡期において国内秩序を自主的に維持して大衆生活の確保を期する。
脚注
- ^ “조선건국준비위원회(朝鮮建國準備委員會)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年3月4日閲覧。
- ^ 吉倫亨(2023) p.206
- ^ 吉倫亨(2023) p.305
参考文献
- 吉倫亨「1945年、26日間の独立」吉永憲史 訳、ハガツサ 2023
関連項目
朝鮮建国準備委員会
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諸勢力の中でも比較的統制のとれていた呂運亨の集団は、日本降伏を見越し8月10日、密かに建国同盟を結成していた。その2日前の8月8日、参戦したソ連は8月9日に豆満江を越え、朝鮮半島に侵攻してきた。一方、朝鮮総督府は半島の突然の機能不全に動揺していた。約70万人もの在留邦人を抱え、有効な対抗勢力がないまま朝鮮全土がソ連に掌握されることを懸念し、呂に接触して行政権の委譲を伝えた。呂は政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件にこれを受け入れ8月15日、日本降伏の報を受けて直ちに朝鮮建国準備委員会を結成。超党派による建国を目指した。 呂自身は左右合作による朝鮮統一を目指していた。8月16日には一部の政治犯が釈放され建国準備委員会に合流したが、その多くが弾圧された共産主義者であり、同委員会は必然的に左傾化した。9月6日、同委員会は朝鮮人民共和国の成立を宣言。その要人には李承晩、金日成、朴憲永、金九、曺晩植らが名を連ねていたが、これは国内外の主だった活動家を本人の許諾なく列挙したに過ぎなかった。 一方、連合国は既に戦時中の諸会談で、自身の主導による朝鮮半島の信託統治を決定していた(後述)。彼らの目に朝鮮人民共和国は、日本がポツダム宣言に違反し連合国の承認を経ず勝手に建てた政権と映った。また総督府も左傾化を嫌うアメリカの意向を受けて態度を変え、建国準備委員会に解散を命じるなど情勢は混乱し、さらに同委員会内部でも対立や離反が相次ぎ、足並みが乱れた。9月8日、仁川にアメリカ軍が上陸。呂は面会を求めるが拒絶される。翌9月9日、総督府は降伏文書に署名し、アメリカ軍に総督府の権限を委譲。9月11日、アメリカによる軍政が開始され、朝鮮人民共和国は連合国・枢軸国双方から承認を得られぬまま事実上瓦解した。 建国準備委員会はその後も活動を続けたが、軍政庁はこれを非合法とみなした。さらに反共を掲げる右派が湖南財閥と結び、9月16日宋鎮禹をトップとする韓国民主党(韓民党)を立ち上げ、上海から重慶に亡命していた大韓民国臨時政府支持を表明、建国準備委員会を否定した。 建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本の敗戦で朝鮮統治が終了した後、行政機構として一定の機能を果たしたとする見方もあれば、突然当事者とされたことに呼応してできた組織であり、実際には朝鮮人民の意思を反映していなかった点を強調する見方もある。 朝鮮半島内で各派の足並みが揃っていない状況下、大韓民国臨時政府に弾劾されアメリカで活動していた李承晩や、ソ連の支援の元で国内で活動していた金日成を初めとする満州抗日パルチザン出身者など、様々な考え方を持った亡命者たちも次々に帰国し、独自の政治活動を展開していた。しかしこの過程で、朝鮮半島に発生した各政府はいずれも連合国全体からの承認を得られなかった。
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