朝鮮情勢の安定化を巡る動きとは? わかりやすく解説

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朝鮮情勢の安定化を巡る動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)

日清戦争」の記事における「朝鮮情勢の安定化を巡る動き」の解説

旧来朝鮮対外的な安全保障政策は、宗主国清一辺倒であった。しかし、1882年明治15年光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉軍事的圧力が伴うようになると(「属国自主」:1881年末から朝鮮アメリカの間で結ばれた条約では、朝鮮側提示した条約草案第一条で「朝鮮清朝属国である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。)、朝鮮国内で清との関係見直動き出てきた。たとえば、急進的開化派独立党)は、日本頼ろうとして失敗した甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。 清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢安定化案がいくつかあった。日本進めた朝鮮中立化多国間朝鮮中立管理)、一国による朝鮮単独保護複数国による朝鮮共同保護である。さらに日清両国軍事力蹂躙され甲申政変収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出された(ドイツ漢城駐在副領事ブドラーの朝鮮中立化案、のちに露朝密約事件当事者になるメレンドルフロシアによる単独保護)。つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清二国間関係から、ロシア含めた三国間関係に移行していた。そうした動き反発したのがロシアグレート・ゲーム繰り広げ、その勢力南下警戒するイギリスであったイギリスは、もともと天津条約1885年のような朝鮮半島軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮単独保護ないし共同保護期待していた。そして1885年光緒11年)、アフガニスタンでの紛争きっかけに、ロシア艦隊による永興湾(元山沖)一帯占領機先を制するため、4月15日3月1日)に巨文島占領した。しかしイギリス行動により、かえって朝鮮ロシア接近し第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢緊迫してしまう。ロシアウラジオストク基地保護のために朝鮮半島制圧意図した朝鮮情勢安定化の3案(中立化単独保護共同保護)は、関係各国利害一致しなかったため、形式的に実現していない。たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権公然と支持し清による朝鮮単独保護促しても、北洋通商大臣李鴻章日露両国との関係などを踏まえて自制した。もっともイギリスは、1891年明治24年)の露仏同盟フランス資本資金援助によるシベリア鉄道建設着工などロシアフランス接近する中、日本が親英政策を採ると判断し対日外交転換した日清戦争前夜1894年明治27年7月16日日英通商航海条約調印し結果的に日本背中を押すこととなる。結局のところ朝鮮は、関係各国勢力均衡している限り少なくとも一国勢力突出しない限り実質的に中立状態であった

※この「朝鮮情勢の安定化を巡る動き」の解説は、「日清戦争」の解説の一部です。
「朝鮮情勢の安定化を巡る動き」を含む「日清戦争」の記事については、「日清戦争」の概要を参照ください。

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