朝鮮戦争での逸話
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1950年7月末から8月初めにかけて第15連隊長であった崔は独断で大邱に募集班を派遣し、人手を集めた。どこの部隊でも物資の荷揚げ等の労務者を独自に集めていたので、ここまでは問題なかったが、第15連隊は3千人の人員を集め、これに階級を与えて大隊3個と補充大隊1個に編成していた。 1951年4月、第8師団は湖南地方のゲリラ掃討に当たり、成功を収めた。戦果もさることながら民衆対策に万全を期し、住民の評判が良かった。白善燁は、崔は今回の討伐までは対ゲリラ戦の経験が無かったのに、どうしてあんなに手際よく対処できたのか不思議であった。その理由を訊いてみると「常識ですよ。あらゆる戦闘でもそうだが、教養、人格、人間性や徳性、それらを総合した常識をもってすれば必ずうまくやれる。常識がなければ必ず失敗するものだ」と崔は答えた。 1951年夏、国連軍の夏季攻勢が実施された。この攻勢においてアメリカ第10軍団(バイアス少将)は隷下の5個師団を並列させ制限攻撃を実施した。つまり隷下の部隊同士が競い合うようにしたのである。この攻勢で火力が少なく、地形が最も堅固であった韓国第8師団の攻撃が最も進捗し、常に第10軍団の攻勢を先導する形となった。これは崔師団長が隷下の部隊を競争されるようなことをせず、協力し合うように心掛けたためであった。このため師団の手持ちの火力を最大限に使用し、お互いを助け合わせることによって、師団の全戦力を常に発揮できた。そのため第8師団は「戦果を競わない部隊」として有名であった。 白善燁によれば明るい性格であり、そのため崔の指揮する部隊はいつも明るかった。また1951年2月の横城戦闘で第8師団が大損害を被ると、全軍注視のなかで大恥をかいたと申性模国防部長官が激怒し、師団長更迭、退役と厳しい処分が決まりかけていた。崔の明るい性格を評価していたアーモンド軍団長はこれまでの戦功にシルバースターを授与するといい、その授与式に国防部長官を列席を求めた。これによって長官の怒りは冷めて師団長更迭は中止になった。
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