朝鮮戦争とキャンプ・シュワブ基地建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 05:29 UTC 版)
「辺野古」の記事における「朝鮮戦争とキャンプ・シュワブ基地建設」の解説
1955年1月28日、米軍の統治機関琉球列島米国民政府は久志村に対して辺野古岳と久志岳の山林で実弾演習を行うことを通達する。しかし伝統的に炭焼きや樟脳作りなど林業にたよってきた住民は、実弾演習で生活の糧である山林が入山禁止となったり焼失してしまうだろうという強い懸念から演習に反対する。3月4日、米民政府はいったんは反対をうけ演習地使用を取りやめるが、7月22日には山林を軍用地として接収すると通知し「もしこれ以上反対を続行するならば、部落地域も接収地に線引きして強制立退き行使も辞さず、しかも一切の補償も拒否する等と強硬に勧告」してきた。朝鮮戦争の勃発以来、沖縄はいまや伊江島や宜野湾市伊佐浜の土地の強制接収「銃剣とブルドーザー」の時代の只中にあった。厳しい状況のさなか、住民は黙認耕作の許可など様々な条件を米軍に要求した。1956年11月、突如、土地委員の一人が民政府の依頼をうけ極東放送で受け入れを発表すると、翌月12月20日、米軍はさらに新規接収を発表した。 1956年12月28日、ライカム(軍司令部)事務所で久志村長と土地使用契約が締結されると、翌29日には辺野古区事務所で村側に海兵隊ハリー・アップル少佐らが出席して、軍用地賃貸契約に至るまでの経過を報告し、土地の賃貸契約期間は5年、適正補償とすべての損害賠償の責任を負う、赤線内でも農耕のできる箇所は農耕させ又薪炭収入れもできるだけ許す、といった村側の条件が確認された。 工事は大阪の錢高組が受注し、キャンプ・シュワブの工事は1959年8月にほぼ完成した。この時期、海岸沿いの旧集落に加えて、山を切り開いて山手に新集落が造成され、基地建設作業員のための飲食街がつくられた。完成後は「辺野古社交街」として基地の歓楽街となった。
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