朝鮮戦争とその後とは? わかりやすく解説

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朝鮮戦争とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:37 UTC 版)

M26パーシング」の記事における「朝鮮戦争とその後」の解説

M26第二次世界大戦の終結後、1945年10月まで生産続けられ総数2,432両が生産された。1946年5月には重戦車から中戦車分類変更されている。 M26はM4の後継として戦闘力十分なものを示したが、M4中戦車と同じ500馬力水冷V8エンジンでは重量の割にパワー不足しており、エンジンとトランスミッション変更した発展型であるM46パットン開発され既存M26順次M46改修されることが決定した。 しかし、第二次大戦後の軍縮により、800両の改修承認されたのみで、そのうち420両は朝鮮戦争勃発後に共産軍のT-34-85戦車対抗できる戦車急遽必要とされたためにM46への改装中止され、90mm M3戦車砲マズルブレーキをシングルバッフル式として排煙器付いたM3A1となり、縦方向の砲安定機能追加されたM67A1砲架装備したM26A1改修された。 M261950年勃発した朝鮮戦争M46と共に投入された。開戦直後日本国内駐屯地半ば放置されていた車両を緊急修理して投入した最初の戦闘こそ散々な結果戦闘開始直後全車故障して放棄された)であったが、改め投入され釜山周辺戦闘では火力装甲T-34-85圧倒し仁川上陸後の戦闘でも一方的に近い戦果挙げている。 1950年末の段階で、米軍M26を6輌、M46を8輌撃破された(修理して復帰できたものを含む)ものの、M4と共同97輌以上の戦車撃破した(その他不確実撃破18両)。その後米軍分析によると、M26はM4A3E8シャーマン対し総合力で3.05倍の戦力評価されている。しかし、1950年の末には北朝鮮軍戦車部隊はほぼ壊滅し、翌1951年からは戦車戦はごく稀なものとなったM26始めとした米軍戦車部隊専ら歩兵火力支援用いられたが、山がちな朝鮮半島ではアンダーパワーのM26機動力不足しており、機関走行系の故障頻発することもあって現場戦車兵に「M4の方が優れている」などと言われる始末であったM26朝鮮戦争全期間通じて用いられたものの、1953年休戦後、全車米軍より退役した朝鮮戦争終結後多数日本運ばれ解体されたが、燃料はおろか機銃の弾も装填されたままだったという。 なお、韓国国防部1949年末に189輌(戦車大隊3個分)のM26供与アメリカ申し入れて合意達し1950年会計年度入ってから引渡しが始まる予定であった。しかしその前に北朝鮮侵攻してしまい手遅れとなり、韓国軍戦車装備しないまま北朝鮮軍と戦わなければならなくなってしまったのである朝鮮戦争休戦後にはアメリカ装備していた車両韓国軍大量に供与されたが、引き渡され戦車M46戦争に間に合わなかったM47であり、結局M26大韓民国陸軍装備されることはなかった。 M26他国への供給量は他のアメリカ軍戦車比べ少なくフランスイタリアベルギー対しその後供与されM47パットン戦車慣熟訓練用渡されたに止まった

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朝鮮戦争とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 01:14 UTC 版)

金鍾碩」の記事における「朝鮮戦争とその後」の解説

その後韓国に渡る。1946年3月27日付で軍事英語学校を卒業し韓国陸軍の任大尉(軍番10070番)。 1946年9月11日国防警備隊作戦教育課長(大尉)。同年10月4日から11月25日まで国防警備隊総司令部人事処長12月警備士官学校臨時校長兼任するなど高級将校として活躍した1947年2月29日第2連隊長。同年9月経理不正が発覚して拘束されたが、証拠不十分で無罪となった1948年6月18日第5旅団参謀長同年8月8日第4旅団参謀長8月16日から10月11日まで旅団長代理1948年10月19日南朝鮮労働党による軍部隊の反乱麗水・順天事件が起こると、左派系の南朝鮮労働党軍人であるということ明らかになり、首謀者一人として逮捕された。1948年11月軍法会議死刑判決をうける。1949年8月2日午後2時、ソウル市恩平区にある某所銃殺された。その際余裕を失うことなく明るく笑って米軍政所属将校たちと握手し始終笑顔であったという。

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朝鮮戦争とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 09:57 UTC 版)

申應均」の記事における「朝鮮戦争とその後」の解説

終戦後1946年連合軍軍政下の朝鮮渡り、後に大韓民国国軍創設される将校となった砲兵司令部設置し砲兵兵科開拓して韓国砲兵の父」と呼ばれる。この時期日本陸軍士官学校57期生でもあった朴正煕高木正雄)との交流もあった。 1948年7月航空二等兵として入隊し、統衛部付補佐官として国防法国軍組織法草案携わった同年8月、任少尉(軍番11466番)。同年11月20日陸軍本部護国軍務室長少領)。 1949年3月13日兵器監。 1950年3月実務教育団長として渡日同年6月朝鮮戦争勃発する帰国して第1野戦砲兵司令官として砲兵増強努めた1951年米国砲兵学校卒業1952年5月少将同年11月陸軍本部行政参謀副長企画参謀副長1953年第3師団長。 1954年6月国連軍総司令部派遣韓国連絡将校団長1956年からアメリカ陸軍指揮幕僚大学留学し翌年6月29日帰国1959年中将昇給1959年トルコ大使1960年4-19革命起きた後の9月1日近く政府トルコ大使辞表受理し11月30日国防部次官補に任命される朴正煕らによる5・16軍事クーデター加勢1961年国防部次官7月西ドイツ大使任命された。 1963年8月ハーバード大学特別研究員1964年10月外務部外研究院長1966年9月韓国科学技術研究副所長1970年8月国防科学研究所長。 死後親日反民族行為者認定された。

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