朝鮮戦争とその後
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「M26パーシング」の記事における「朝鮮戦争とその後」の解説
M26は第二次世界大戦の終結後、1945年10月まで生産が続けられ、総数2,432両が生産された。1946年5月には重戦車から中戦車に分類が変更されている。 M26はM4の後継として戦闘力は十分なものを示したが、M4中戦車と同じ500馬力の水冷V8エンジンでは重量の割にパワーが不足しており、エンジンとトランスミッションを変更した発展型であるM46パットンが開発され、既存のM26は順次M46に改修されることが決定した。 しかし、第二次大戦後の軍縮により、800両の改修が承認されたのみで、そのうち420両は朝鮮戦争勃発後に共産軍のT-34-85戦車に対抗できる戦車が急遽必要とされたためにM46への改装が中止され、90mm M3戦車砲がマズルブレーキをシングルバッフル式として排煙器の付いたM3A1となり、縦方向の砲安定機能が追加されたM67A1砲架を装備したM26A1に改修された。 M26は1950年に勃発した朝鮮戦争にM46と共に投入された。開戦直後、日本国内の駐屯地で半ば放置されていた車両を緊急修理して投入した最初の戦闘こそ散々な結果(戦闘開始直後に全車が故障して放棄された)であったが、改めて投入された釜山周辺の戦闘では火力と装甲でT-34-85を圧倒し、仁川上陸後の戦闘でも一方的に近い戦果を挙げている。 1950年末の段階で、米軍はM26を6輌、M46を8輌撃破された(修理して復帰できたものを含む)ものの、M4と共同で97輌以上の敵戦車を撃破した(その他不確実撃破18両)。その後の米軍の分析によると、M26はM4A3E8シャーマンに対し、総合力で3.05倍の戦力と評価されている。しかし、1950年の末には北朝鮮軍戦車部隊はほぼ壊滅し、翌1951年からは戦車戦はごく稀なものとなった。M26を始めとした米軍戦車部隊は専ら歩兵の火力支援に用いられたが、山がちな朝鮮半島ではアンダーパワーのM26は機動力が不足しており、機関・走行系の故障が頻発することもあって現場の戦車兵に「M4の方が優れている」などと言われる始末であった。 M26は朝鮮戦争の全期間を通じて用いられたものの、1953年の休戦後、全車が米軍より退役した。朝鮮戦争終結後、多数が日本に運ばれ解体されたが、燃料はおろか機銃の弾も装填されたままだったという。 なお、韓国国防部は1949年末に189輌(戦車大隊3個分)のM26の供与をアメリカに申し入れて合意に達し、1950年会計年度に入ってから引渡しが始まる予定であった。しかしその前に北朝鮮が侵攻してしまい手遅れとなり、韓国軍は戦車を装備しないまま北朝鮮軍と戦わなければならなくなってしまったのである。朝鮮戦争休戦後にはアメリカが装備していた車両が韓国軍に大量に供与されたが、引き渡された戦車はM46と戦争に間に合わなかったM47であり、結局M26が大韓民国陸軍で装備されることはなかった。 M26の他国への供給量は他のアメリカ軍戦車に比べ少なく、フランスやイタリア、ベルギーに対し、その後に供与されるM47パットン戦車の慣熟訓練用に渡されたに止まった。
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朝鮮戦争とその後
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その後、韓国に渡る。1946年3月27日付で軍事英語学校を卒業し、韓国陸軍の任大尉(軍番10070番)。 1946年9月11日、国防警備隊作戦教育課長(大尉)。同年10月4日から11月25日まで国防警備隊総司令部人事処長、12月に警備士官学校臨時校長を兼任するなど高級将校として活躍した。 1947年2月29日、第2連隊長。同年9月、経理不正が発覚して拘束されたが、証拠不十分で無罪となった。 1948年6月18日、第5旅団参謀長。同年8月8日、第4旅団参謀長。8月16日から10月11日まで旅団長代理。 1948年10月19日、南朝鮮労働党による軍部隊の反乱、麗水・順天事件が起こると、左派系の南朝鮮労働党系軍人であるということが明らかになり、首謀者の一人として逮捕された。1948年11月に軍法会議で死刑判決をうける。1949年8月2日午後2時、ソウル市恩平区にある某所で銃殺された。その際、余裕を失うことなく、明るく笑って米軍政所属の将校たちと握手し始終笑顔であったという。
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朝鮮戦争とその後
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終戦後の1946年、連合軍軍政下の朝鮮に渡り、後に大韓民国国軍が創設されると将校となった。砲兵司令部を設置し、砲兵兵科を開拓して「韓国砲兵の父」と呼ばれる。この時期、日本陸軍士官学校第57期生でもあった朴正煕(高木正雄)との交流もあった。 1948年7月、航空二等兵として入隊し、統衛部付補佐官として国防法、国軍組織法の草案に携わった。同年8月、任少尉(軍番11466番)。同年11月20日、陸軍本部護国軍務室長(少領)。 1949年3月13日、兵器監。 1950年3月に実務教育団長として渡日、同年6月に朝鮮戦争が勃発すると帰国して第1野戦砲兵司令官として砲兵の増強に努めた。 1951年、米国の砲兵学校卒業。 1952年5月、少将。同年11月、陸軍本部行政参謀副長兼企画参謀副長。 1953年、第3師団長。 1954年6月、国連軍総司令部派遣韓国連絡将校団長。 1956年からアメリカ陸軍指揮幕僚大学に留学し、翌年6月29日に帰国。 1959年、中将に昇給。 1959年、トルコ大使。 1960年、4-19革命が起きた後の9月1日昼近く、政府はトルコ大使の辞表を受理し、11月30日、国防部次官補に任命される。朴正煕らによる5・16軍事クーデターに加勢。 1961年に国防部次官、7月に西ドイツ大使に任命された。 1963年8月、ハーバード大学特別研究員。 1964年10月、外務部外交研究院長。 1966年9月、韓国科学技術研究所副所長。 1970年8月、国防科学研究所長。 死後は親日反民族行為者に認定された。
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