開戦直後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 02:03 UTC 版)
1914年7月28日にオーストリア・ハンガリー帝国と、汎スラヴ主義を掲げるロシア帝国の影響下にあったセルビアとの間で戦争が勃発した。ゲーベンはアドリア海のポーラでボイラーの修理中であった。アドリア海に閉じ込められないためにスションは修理を急がせたが、結局修理が完了していない状態で出航した。8月1日にスションはイタリア王国のブリンディジに到着したが、イタリアは中立であることを理由にして給炭を行わなかった。ゲーベンはタラントでブレスラウと合流後メッシーナへ向かい、そこでドイツ商船から石炭を補給した。 一方、7月31日にイギリスの海相ウィンストン・チャーチルは地中海艦隊の指揮官アーチボルド・バークレー・ミルン(英語版)中将に対し、地中海を横切ってフランス第19軍団を運んでいるフランスの船団を護衛するよう指示した。この時、マルタを拠点とする地中海艦隊は巡洋戦艦3隻(インフレキシブル、インディファティガブル、インドミタブル)、装甲巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻および14隻の駆逐艦からなっていた。 8月1日、ミルンはマルタに艦隊を集結させた。翌日、ミルンは、オーストリア海軍の出撃に備えてアドリア海の監視を続ける一方、巡洋戦艦2隻でゲーベンを追跡するよう指示を受けた。ミルンはこれに背き、インドミタブル、インディファティガブルをアーネスト・トラウブリッジ(英語版)少将麾下の巡洋艦戦隊と共にアドリア海に向かわせ、軽巡洋艦チャタムをメッシーナ海峡へゲーベン捜索に向かわせた。しかし、8月3日朝の時点で既にドイツ艦隊はメッシーナを離れて西へ向かっており、ミルンはインドミタブルとインディファティガブルをゲーベン捜索のため西へ向かわせた。
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