開所後の業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/19 01:28 UTC 版)
今田虎次郎は恰幅もよかったし、貫禄もあった。医学校教諭の医師菅井竹吉は、医長に任命され、研究熱心で業績を挙げた。定員300は1年半でほぼ一杯となった。ばくちの親分なども入所したが、小さいトラブルはあったが、特に問題はおこらなかった。衣食住は貧しかったが、飲料水を確保したことは重要なことである。最初は自家発電であったが、大阪市の電灯も引き込んだ。1909年12月に今田虎次郎の発議で「患者慰籍会」を発足させ、患者の精神状態の向上を期した。協力者もあり、吉本興業から芸人が慰問に定期的に来た。また、本の好きな患者がいて、図書が寄付され、これは図書館となっていった。最初の年から盆踊りも行った。働ける患者には患者作業を課し、賃金を与えた。情操を豊かにするために、庭園なども作った。また、農園を作ったが、これは療養所が低湿地であったので水はけも悪く、問題であった。「外島キリスト教会」を認めた。患者騒動もあったが、医師でない今田虎次郎が長年、ハンセン病療養所長を務めてきたのは、異例である。行政的にも手腕を発揮して、患者にも慕われた。 彼の退職後であるが、1934年の室戸台風で高波が押し寄せ、多数の死傷者が出た。療養所は全壊した。 「室戸台風」も参照
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