開拓と疏水の街
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 09:36 UTC 版)
「疏水」、「那須疏水」、および「那珂川#那須疏水事業」も参照 那須野ヶ原は那須岳、大佐飛山地、高原山より流れ出る複数の河川(那珂川、熊川、蛇尾川、箒川)によって国内最大級の複合扇状地が形成されている。その面積はおよそ4万haにのぼるが、大田原市以西那須連峰山麓部までの一帯の河水は、そのほとんどが伏流水として地下に潜る。そのため、井戸も湧出させるまでに数10m - 100m以上を掘削する必要がある。また北側の那珂川は水量こそ豊富であるものの深い谷底を流れ、南側の箒川もまた扇状地の最も低くなっている場所を流れているため、ここから田畑へと水を引くことができない。大田原藩や黒羽藩などの那須地域の諸藩が、城下の水を確保するために掘削した小規模な蟇沼用水や木ノ俣用水のように小規模な用水路が引かれることもあったものの、那須野が原では広範囲に砂礫層が堆積しているため、保水力が弱く水田や用水路から水が地中へと浸透してしまう。このため流域の住民は厳しい水供給を余儀なくされていた。実話として、那須野ヶ原より約4km離れている箒川まで水桶を抱えて水を確保しに往復していたという話もある。『手にすくう水もなし』と例えられるほど慢性的な水不足に悩まされた那須野の住民にとって安定した水供給は悲願であったが、蟇沼用水や木ノ俣用水などが細々と水脈を保っていた以外に水利はなく、明治に入るまで那須野ヶ原は原野のまま存置されてきた。 さらに、地面を耕せば大量に石が出るため、農作業には柄が短く頑丈に作られた特別な鍬を必要とした。 このように那須野が原は元々水資源に乏しく農地には適さない地域であり、江戸末期まではほとんど集落のない原野であった。 明治時代、那須野ヶ原の本格的な開拓が行われたが水供給の問題は尾を引いていた。初代栃木県令鍋島幹彼は、那須と東京を運河で結ぶ「大運河構想」を練っていた。この構想は壮大すぎ実現には至らなかったが、これにヒントを得た那須野ヶ原の灌漑整備構想がもたれるようになった。那須地方の実業家であった印南丈作と矢板武は、那珂川から用水を引き那須野ヶ原の灌漑用水に利用しようとする構想を打ち立てた。事業計画は容易に進まなかったが、栃木県令三島通庸の強力な後援もあって内務省による正式な事業となり1885年(明治18年)9月、住民の宿願である那須疏水事業が着手された。 那珂川上流の西岩崎地点に頭首工(西岩崎頭首工)を建設し、そこから農業用水を台地に送水するというものであったこの疏水は、安積疏水(福島県)を掘削した熟練の技術工員により工事が進められ、幹線水路約16.3kmが着工から僅か5か月という極めて早いペースで完成した。翌年からは支線水路約46.5kmが建設され、長年水不足に悩まされた那須野ヶ原に遂に安定した水供給が図られた。事業費は当時の予算で10万円であるが、この事業費は当時の内務省土木局の年間予算の10分の1にあたり、いかに巨大なプロジェクトであったかが分かる。1905年(明治38年)と1928年(昭和3年)にも拡張事業が行われ、総延長約332.9kmの水路網によって約4,000haの開墾が可能となった。 疏水の開通により、印南丈作と矢板武による那須開墾社や三島通庸の筆耕社をはじめとして、全国各地から開拓民を募集し、開墾事業を推進した。前述のように、地表を少し掘ると石ばかりの土地であり、冬は吹き下ろす寒風に苦しめられるため、開拓は困難を極めたという。 1967年(昭和42年)頃から1994年(平成6年)の間に行われた国営那須野が原開拓建設事業において近代化整備を施されると共に、統合によって相互利用が可能となった。 那須疏水は、安積疏水(福島県郡山市とその周辺地域)、琵琶湖疏水(滋賀県琵琶湖-京都市)と並ぶ日本三大疏水の一つと数えられる。那須野が原用水は2006年2月3日に疏水百選にも選ばれている。
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