開戦準備決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
これを受けて9月3日に御前会議で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領」が決定され、1941年10月末を目処とした開戦準備が決定された。 その一方で、8月7日に近衛首相は昭和天皇から「首脳会談を速やかに取り運ぶよう」との督促を受け、野村吉三郎大使に「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は、此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」と宛て、米大統領ルーズベルトとの首脳会談を提案するよう訓電した。首脳会談の申し入れは野村からコーデル・ハル国務長官に行われたが(ルーズベルトはチャーチルとの大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった。しかし実のルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、「ホノルルに行くのは無理だが、ジュノーではどうか」と返事をした。 さらに近衛首相は、8月27日、28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』で、総力戦研究所より日米戦争は「日本必敗」との報告を受ける。 しかしその一方で、中華民国との戦争が4年たっても勝利が見えない中、イギリス(とオーストラリアやニュージーランド、英領インドなどイギリス連邦諸国)とアメリカ、オランダという、日本に比べて資源も豊富で人口も多く、さらに明らかに工業力が大きい国家、それも複数と同時に開戦するという、暴挙とも言える政策に異を唱える者の声は益々小さくなっていった。 なおイギリスやアメリカとの開戦に関して日本の東条ら陸海軍首脳は、「アメリカ国民は厭戦気分が強く、緒戦で日本軍が圧倒した場合、日本に有利な条件で講和に応ずるであろう」、「イギリスはドイツと間もなく講和に向かい、日本に有利な条件でマレーや香港も手放さざるを得なくなるだろう」といった安易(または勝手)な想像と思いこみを根拠に開戦の準備を進めた。さらに東条らが言うように、日本陸海軍に攻撃されたイギリスやアメリカ、オランダが、その後簡単に停戦、講和交渉に応じるという根拠はどこにもなかった(なお東条陸相は駐在武官としてスイスに駐在し、ドイツに訪問したことこそあるものの、イギリスやアメリカを訪問したことは1度もなく、英語もできないため両国の首脳陣に知人もいなかった。これは海軍ならともかく、当時の日本の陸軍官僚や政治家では標準的な事であった)。 いずれにしても、このような日英米蘭関係の悪化を受けて、日本海軍はホノルルやサンフランシスコ、メキシコ、サイゴン、マカオ、マドリードなどにスパイを送っている。例えば3月26日にホノルルに送られた吉川猛夫少尉は「森村正」の変名を名乗りホノルル領事館に勤務した。吉川が収集した情報は、真珠湾におけるアメリカ海軍の艦船の動向など多岐にわたり、喜多長雄総領事の名で東京に暗号にして打電していた。吉川の正体は総領事以外誰も知らされなかった。
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