開戦直前の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 14:01 UTC 版)
曹操は199年夏4月、暗殺された張楊の陣営を指導していた眭固が袁紹に味方しようとしたため、史渙・曹仁らの軍を派遣しこれを阻止し、張楊の旧臣でもある董昭を使い、張楊の勢力を取り込んだ。 199年秋8月、曹操は袁紹に備えるため黄河の畔の要地である黎陽に布陣するとともに、臧覇に命じて青州方面から袁紹を牽制した。于禁を備えとして置き、9月には許都に帰還した。 かつて(197年春正月)、宛城で曹操を破ったこともある張繡は、荊州の劉表と結びたびたび曹操を苦しめていたが、199年冬11月に軍勢を引き連れて降伏した。曹操は張繡を列侯に封じ、さらにその参謀の賈詡を重用した。 この間、袁紹との勢力の合流を図った揚州の袁術を牽制するため、揚州刺史に厳象を派遣し、さらに徐州には劉備を派遣した。199年6月(『後漢書』献帝紀)、孤立した袁術は失意のうちに病死する。 200年春正月、許都で董承の謀反が発覚し、ひそかに董承と呼応していた劉備も徐州で刺史の車冑を殺害し反乱を起こした。曹操は董承の一派を処刑すると、劉備を討つため親征した。袁紹の参謀である田豊は曹操の背後をつくことを進言したが、袁紹は息子の病気を理由に出陣を許さなかった。曹操は劉備を敗走させ、その部将の夏侯博と関羽を捕虜とした。劉備は袁紹を頼って落ち延びた。
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