朝鮮戦争と停戦ライン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:13 UTC 版)
詳細は「軍事境界線 (朝鮮半島)」および「北方限界線」を参照 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、1953年に国連軍と朝鮮人民軍及び中国人民志願軍の間で休戦協定が結ばれた。この際、休戦協定直前の最前線が停戦ラインとされ、停戦ラインから南北2キロメートルずつを非武装地帯(DMZ, Demilitarized zone)と呼ばれる緩衝地帯として設置し、朝鮮半島を横切る無人の地域となっている。また南北双方は侵入を防ぐ目的で、非武装地帯を何重にも鉄条網や高圧電線で囲い、幅4キロメートルの帯状のこの地域に多くの地雷を敷設している。以後アメリカ軍とソ連軍が引いた境界線に代わり、この停戦ラインが軍事境界線として、2020年現在も南北の事実上の境界線(国境)となっている。 占領政策の過程で北緯38度線上に1本の境界線が引かれたこと、そして、その後に南北に異なるイデオロギー政権が生まれたことが3年間の朝鮮戦争の原因となり、各方面へ多くの犠牲をもたらした。しかし、南北の境界線は、戦争中に南へ北へと移動しても消えることはなく、結局、戦争をもたらした北緯38度線の付近に、停戦ラインを引く結果となってしまったため、朝鮮戦争は「意義のない戦争」であると言われることがあるが、実際には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)側が1950年にポツダム宣言で定められた米ソ分割占領ラインを一方的に破棄し、南部朝鮮地方へ奇襲をかけて各地で国際法違反の虐殺行為を繰り返したのみならず、武力統一を試みたことにより、国際社会の結集を招き、初めて結成された国連軍により開戦前の国境線よりも後退し、前線を押し戻されたという事実のみが残る。朝鮮戦争勃発直前に中国大陸では国共内戦を経て、中国人民解放軍が海南島を完全占領して台湾を除いた中国大陸全土の支配権をポツダム宣言時の「中国軍」である中華民国軍から奪っており、ソ連から陸上部隊の派出を断られた朝鮮人民軍にとって、鴨緑江付近に追い詰められた段階で、本格介入した中国人民解放軍による「抗美援朝義勇軍」(中国領土への戦線拡大を避けて反アメリカ反韓国を標榜した自然発生的義勇軍とされているが、事実上は北朝鮮側に就いた中華人民共和国の全面的参戦)と呼ばれる、陸海空で数十万人ともいわれる中国人民解放軍の猛反撃が無ければ、ダグラス・マッカーサーの発案によるソウル市近郊インチョン逆上陸作戦(スレッジハンマー作戦)の成功により、逆襲に成功した国連軍により、朝鮮半島の韓国主導での武力統一は間違いなかったとされる。逆に1950年代初頭の北朝鮮がこの時点で攻め滅ぼされていれば、1949年に国共内戦により中華民国の首都南京を再陥落させ、北京市で成立したばかりであった中華人民共和国の領土は国連軍の駐屯地と隣接することになり、直前に台湾台北市に遷都した蔣介石率いる中華民国軍(台湾亡命後も1970年代まで常任理事国の中国代表権を維持していた)を取り逃がして焦る毛沢東は、中華人民共和国とアメリカ軍駐屯地域との間に緩衝地帯となっていた北朝鮮が滅亡する事が、国連での中国代表権を持たない中華人民共和国の東西冷戦構造における死活問題となると判断し、派兵すれば中国人民解放軍に犠牲を出す事が確実であるにも関わらず朝鮮戦争への全面介入を決断したともされる。このことを踏まえ、米国は中華人民共和国と朝鮮半島有事で米軍が境界線を越えた際の38度線までの米軍撤退などの具体的対応を協議していることを2017年12月にアメリカ合衆国国務長官のレックス・ティラーソンは公表している。 現在、38度線と言えば、この停戦ラインを指すことが多い。ただし、停戦ラインの38度線はあくまでも「付近」であり、実際には西南西から東北東へと向かう歪な線となった。そのため、第二次世界大戦後から朝鮮戦争勃発までは南側であった黄海道の海岸部や京畿道の開城は朝鮮戦争停戦後には北側となり(ただし、北側になってからの開城は京畿道ではなく、直轄市、黄海北道の一部を経て特別市となっている)、逆に江原道の一部(束草市など)は北側から南側となった。 韓国鉄道公社(KORAIL)の路線では、京元線が北緯38度線を跨いで運行されている。同線が北緯38度線を越す位置(哨城里 - 漢灘江間)には、それを示す標柱なども建てられている。
※この「朝鮮戦争と停戦ライン」の解説は、「38度線」の解説の一部です。
「朝鮮戦争と停戦ライン」を含む「38度線」の記事については、「38度線」の概要を参照ください。
- 朝鮮戦争と停戦ラインのページへのリンク