朝鮮建国の功臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:55 UTC 版)
父の友の李穡を師として学問を学んだ。1360年に科挙に合格して1363年官吏となるが、1375年に権臣の李仁任などの親元反明の政策に反対したために流刑に処される。流刑生活の中、孟子の影響を受けたとされる。1377年、流刑生活が終わって学問研究と教育に携り、1383年に李成桂(後の太祖)の幕僚となる。この時東北面(現在の咸鏡道)の李成桂を訪れ、彼の軍勢を見て「見事な軍勢でございます。さぞどんな事をも成し遂げられましょう」と言った。驚いた李成桂が「そのどんな事とは?」と聞くと、道伝は知らぬふりをして「東南の倭寇を撃つ事にございます」と答えた。 威化島回軍を経て1389年、昌王を廃して恭譲王を擁立すると功臣として封ぜられるが、1391年再び流刑に処された。1392年釈放されるが、その年4月に李成桂が遊猟中に落馬して負傷するという事件が起こった。うしろだてである李成桂が療養中のすきに鄭夢周などが「家風が不浄で家系が不確かだ」(鄭道伝の母は奴婢と『朝鮮王朝実録』に書かれている)と弾劾して、3度流刑に処された。李芳遠(後の太宗)が鄭夢周を暗殺すると釈放されて、同年7月17日李成桂を王に推戴した。
※この「朝鮮建国の功臣」の解説は、「鄭道伝」の解説の一部です。
「朝鮮建国の功臣」を含む「鄭道伝」の記事については、「鄭道伝」の概要を参照ください。
- 朝鮮建国の功臣のページへのリンク