朝鮮解放後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/05 05:57 UTC 版)
1945年8月15日に日本が敗戦すると、兄の呂運亨、安在鴻らと朝鮮建国準備委員会を結成し、朝鮮人民党に参加し政界に進出した。呂運亨は朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作から朝鮮に進駐するのはソ連軍だと聞かされていたが、9月に進駐したのはアメリカ軍だった。同年9月8日に仁川に上陸した米軍軍政長官ジョン・リード・ホッジに面会を申し入れたが拒否された。 1946年に結成された民主主義民族戦線に参加し外交対策専門委員会委員として活動した。同年5月に朝鮮共産党を非難し、朝鮮人民党を離党した。曺奉岩が朴憲永を非難する書簡が報道されてから2日後のことだった。5月9日にソウル中央放送局から朝鮮人民党離党声明を発表した。声明で曺奉岩の手紙で、朝鮮共産党の極左的謀略が暴露されたと主張し、朝鮮人民党が党内の不純分子の策動により独自路線を喪失し、共産党の前衛的な役割を担っていると非難し、新党結成を発表した。 1946年5月11日には94人が朝鮮人民党を離党した。後に結成される社会民主党は、朝鮮人民党の離党者を中心とした中道政党である。この集団離党の背景には呂運亨と朴憲永の左派勢力を弱体化させるための米軍軍政当局の謀略があった。
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