朝鮮義勇隊組織と独立運動
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1930年、朝鮮共産党再建同盟を組織して[疑問点 – ノート]。 1932年、蔣介石の援助で朝鮮革命幹部学校を中国・南京市郊外の善祠廟(江寧区湯山)に設置し、革命要員募集と養成を行なった。 1935年、金奎植らの米州韓人独立党を吸収し朝鮮民族革命党を再結成するも、趙素昻、池青天の脱退など間もなく分裂。 1937年、金元鳳は、一時的に安楽な生活を送れるようになった。当時動向を把握していた朝鮮総督府特務機関の報告によれば、金元鳳は自家用車を所有しており、臨時政府よりは張学良一派から多くの資金を受けていたとされる。1937年7月10日、中華民国政府の招きにより、中国高官の会議場である南徴西郊の廬山を訪れる。廬山には金九などが来ており、中国政府側代表者は日本を相手取り統一戦線を結成すべきだと説得した。帰還する前、中国政府代表者から、使命を完遂するのに必要な巨額の資金援助を受けた。 1937年11月2日、朝鮮民族革命党と独立運動家の金山らの朝鮮民族解放同盟、鄭華岩らの朝鮮アナーキスト連盟を統合し、朝鮮民族前線連盟を編成。 1938年10月には、訓練を重ねた青年たちを糾合して、中国・漢口から、朝鮮民族前線連盟傘下の抗日軍事組織・朝鮮義勇隊を組織・編成。司令官に就任した。部隊員には元革命党員のほか、のちには朝鮮民族前衛同盟党員らも編入した。しかし義勇隊の多くが、八路軍が集結している中国西北地域に移動し、義勇隊司令官である金元鳳の指揮下から離脱したため、金の影響力は急速に衰えた。社会主義系列の独立運動のために、社会主義国家建設には否定的な右派である金九とは対立した。1939年、韓国独立党との統合が検討されたが、日の目を見ることはなかった。民族革命党の一部からは、既存の団体と連帯することには賛成するが既存の組織を解体して新党を結成することには賛成できないとの反発を呼び起こした。 1944年5月、戦闘の後遺症で妻の朴次貞が死去。
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