日本での評価
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「脱亜思想」も参照 日本の初等・中等教育の歴史教科書においても、「脱亜論」社説を「日本が欧米列強に近づくためにアジアからの脱却を唱えた物で、日本がアジアの1ヵ国であることを否定している」と定義付け、「日本人がアジアを蔑視する元となった脱亜入欧の代表的言説」と教えていることが多い。が、この論文に至った甲申事変や当時の歴史的背景を教えていない事も多く、「脱亜論」の一部だけを取り上げて、「脱亜論」社説を正しく解釈していない、と言う意見も存在する。丸山眞男は、福沢が実践的にも早くからコミットしていた金玉均ら朝鮮開化派による甲申事変が三日天下に終わったことの失望感と、日本・清国政府・李氏政権がそれぞれの立場から甲申事変の結果を傍観・利用したことに対する焦立ちから、「「脱亜論」の社説はこうした福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない」と説明する。また、丸山は、福澤が「脱亜論」を執筆したと仮定しても、福澤が「脱亜」という単語を使用したのは「脱亜論」1編のみであると指摘した。それゆえ、「脱亜」という単語は福澤においてはキーワードでないと述べた。さらに、「入欧」という単語に至っては、福澤諭吉は(署名著作と無署名論説の全てにおいて)一度も使用したことがなく、したがって「脱亜入欧」という成句も福澤が一度も使用していないことを指摘した。さらに、丸山は「脱亜入欧」という成句が福澤と結びつけて考えられるようになるのはたかだか1950年代以降のことであり、戦前の福澤研究や石河幹明の『福澤諭吉伝』においても「脱亜」とか「脱亜入欧」とかいう語句が登場することはなく、社説「脱亜論」に関してもほとんど引用されたことはないと指摘した。 日本で、「脱亜入欧」という成句が、あたかも福沢自身の造句であるかのように.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}喧伝(けんでん)され、いなそれ以上に、福沢の全思想のキー・ワードとして、学会だけでなく、一般ジャーナリズムの世界にまで流通するようになったのは、きわめて最近の現象であり、たかだか一九五〇年代以後の傾向である。その端的な証拠は、戦前の小泉信三らによる代表的な福沢研究、もしくは福沢のもっとも詳細な伝記として定評のある、石河幹明著『福沢諭吉伝』(全四巻、一九三二年刊)のなかには、「脱亜」とか「脱亜入欧」とかの表現が解説のなかに登場しないだけでなく、福沢が「脱亜」の文字を実際に用いた唯一の社説「脱亜論」さえ、ほとんど引用されていないことに示されている。私の記憶が間違っていないならば、戦前に刊行された福沢論文の『選集』の類に、「脱亜論」が選ばれて入った例はなかった。 — 丸山眞男、丸山(2001)、285-286頁。 実際、見つかっている「脱亜論」に関する最初のコメントは1951年(昭和26年)の遠山茂樹「日清戦争と福沢諭吉」である。「脱亜論」が一般に有名になったのはさらに遅れて1960年代である。 岩波書店で『福沢諭吉書簡集』編集に携わった西川俊作は、「この短い(およそ二、二〇〇字の)論説一篇をもって、彼を脱亜入欧主義の「はしり」であると見るのは短絡であり、当時の東アジア三国のあいだの相互関連を適切に理解していない見方である」と指摘する。 坂本多加雄は、甲申政変の失敗と清国の強大な軍事力を背景にして、「「脱亜論」は、日本が西洋諸国と同等の優位の立場でアジア諸国に臨むような状況を前提にしているのではなく、むしろ逆に、朝鮮の一件に対する深い失望と、強大な清国への憂慮の念に駆られて記された文章ではないか」と説明する。 坂野潤治は、福澤の状況的発言は当時の国際状況、国内経済などの状況的認識と対応していることを強調し、甲申事変が失敗したことにより状況的認識が変化して「脱亜論」が書かれたと説明して、「これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。福沢の「脱亜論」をもって彼のアジア蔑視観の開始であるとか、彼のアジア侵略論の開始であるとかいう評論ほど見当違いなものはない」と解説する。 北岡伸一は、坂野潤治による「脱亜論」を「福沢の敗北宣言」とする解釈に賛同し、「ここで福沢が言っているのは、日本は朝鮮を独力で文明開化に導き、特殊密接な関係を作りあげたいという明治十四年以来の構想を断念したということであった」と解説している。 安川寿之輔は、初期の福澤の思想にも国権論的立場を見出し得るのであるから、「脱亜論」がそれ以前の福澤の考えと比較して特段異なるものとはいえないと指摘する。 平山洋は、「脱亜論」が甲申政変とその後の弾圧に対する影響で書かれた社説であることに注目して、「第二次世界大戦後になって、「脱亜論」中の、「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」(全10二百四十頁)とか、「朝鮮国に人を刑するの惨酷(ざんこく)あれば」とかいった記述がことさらに取り上げられることになったが、そうした表現は一般的な差別意識に根ざすものではなく、この甲申政変の過酷な事後処理に対する批判にすぎなかったのである。こうした時事的な部分を除いてしまえば、「脱亜論」は、半開の国々は西洋文明を取り入れて自から近代化していくべきだ、という『文明論之概略』の主張と少しも変わらない」と解説している。 小説家の清水義範は、小説中の文学探偵が「脱亜論」を読んだ感想として、「日本は文明国だから、中国、朝鮮を支配していい、なんて考えておらず、当然のことながらそんなことは書いていない。むしろ、西洋列強の野望渦巻く苛烈な国際情勢下で、ひとり先に文明開化した日本が独立をまっとうせんがためには致し方なく中国、朝鮮と袂を分かたなければいけない……それが脱亜という選択肢である」と語らせている。 他には、興亜論へのアンチ・テーゼとして「脱亜論」が発表されたとの考えもある。
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日本での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:07 UTC 版)
日本では外山軍治・衣川強が、秦檜に対する研究のなかで秦檜を擁護している。 小説家の田中芳樹は「どうしても和平を利用して自分の地位を固めたとしか見えないところがある」「秦檜の和平策というのは、政策としてはまちがっていなかった(中略)ただし、政策以前に問題になるのが、無実の人間を謀反の汚名を着せて殺してもいいのか」と批判的な見解を示している。
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日本での評価
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「イット・ケイム・フロム・ザ・レイト・レイト・レイトショウ」の記事における「日本での評価」の解説
日本語版のスタッフは、雑誌上などで積極的に『レレレ』を理解させる記事を展開した。金澤尚子や田中としひさは漫画で『レレレ』紹介し、映画ファン以外に『レレレ』の遊び方を伝えるのに貢献した。朱鷺田祐介や桂令夫などのライターは、文章面から『レレレ』の遊び方を説明していった。 結果としては『レレレ』は日本のテーブルトークRPGファンにはそれなりの認知度は持てたものの、コアユーザー向きのマイナーなゲームという枠からは脱せなかった。
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日本での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 09:15 UTC 版)
日本での著者初刊行書籍となる長編『ブラインドサイト』は、2014年に星雲賞海外長編部門を受賞した。また、早川書房の発行する『SFが読みたい! 2014年版』で「ベストSF2013 海外篇」第2位に選ばれた。日本オリジナル短編集『巨星』は、『SFが読みたい! 2020年版』で「ベストSF2019 海外篇」第2位に選ばれた。
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日本での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 06:36 UTC 版)
江戸川乱歩は太平洋戦争の終戦後にアメリカから流入した情報で、戦時中の新作「Phantom Lady」の評判を知り、手を尽くして1946年2月に原書を入手、一読して「新しい探偵小説であり、すぐに訳すべきである」という高評価を与えた。このため1950年の黒沼健による初訳前からその存在を知られ、後年まで圧倒的な知名度を保っている。1945年初頭にアメリカ軍の捕虜になった大岡昇平は、レイテ島の野戦病院で本書の原書を読んでいたという。 全日本大学ミステリー連合アンケート調査(1982年)「海外ミステリ=ザ・オール・タイム・ベスト200」 - 3位 文藝春秋『東西ミステリーベスト100』 - 1985年版で第2位、2012年版では第4位 早川書房『ミステリ・ハンドブック』(1991年)「読者が選ぶ海外ミステリ・ベスト100」 - 1位 光文社『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』1999年7月号「21世紀に伝える翻訳ミステリー オールタイム・ベスト100」 - 5位 早川書房『ミステリが読みたい! 2010年版オールタイム・ベスト・ランキングforビギナーズ』 - 2位 光文社『ジャーロ』(2005年)「海外ミステリー オールタイム・ベスト100」 - 5位
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日本での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 06:36 UTC 版)
パイパーと同世代の選手では、たとえばラリー・ズビスコやドン・ムラコなど、マイクアピールによる観客との駆け引きを得意とするレスラーは英語の通じない日本では真価を発揮することが難しかった。しかしパイパーはマイクを通さずとも、彼のもう一つの持ち味である「向こうっ気の強さ」を全面に出したイキのいいラフファイトと抜群のレスリングセンスで、日本でも若手時代から高い評価を獲得している。アメリカマットで超売れっ子だったため、来日回数は1977年から1983年まで通算3回と少なく日本では大きな実績を残せなかったものの、当時のファンや関係者の間では来日を望む声が多く聞かれた。 なお、日本には1977年に新日本プロレスへ初来日しているが、前年にモハメド・アリとの異種格闘技戦のプロモーションでロサンゼルスを訪れたアントニオ猪木がテレビのインタビューに応えた際、同地区を主戦場としていたパイパーが乱入して猪木に喧嘩を売るというアングルが組まれたこともある。
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日本での評価
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「ジョーン・サザーランド」の記事における「日本での評価」の解説
ベルカント・オペラ復活に関する彼女の多大なる功績にもかかわらず、サザーランドの評価は日本においては高いものとは言えなかった。1975年にメトロポリタン歌劇場来日公演で『椿姫』のヴィオレッタ役を歌ったのがサザーランドの日本における初公演だったが、それ以前の日本人のオペラ評論家は、レコードや海外公演などで1960年代の彼女の演奏を聴いて「白痴美的」というレッテルを貼っていた。しかし初来日公演を聴いた日本人オペラ評論家は、声の衰えをあげつらうという、およそ健全とは言い難い批評をしていた。 実際、サザーランドの絶頂期だった1960年代から1970年代前半までは、発声の美しさや歌唱のフォルムを重視するあまり、歌唱のアーティキュレーションを犠牲にした面があったのは事実であり、日本以外でもしばしば批判の的にされていた。それが「イタリア語(フランス語)の歌詞として聴こえない」という批判となっていた。この欠点が修正されたのは歌手としての衰退期にあたっていたが、そのような背景を無視した批判がなされていた。もしもサザーランドに対する評価が高かったならば、日本におけるベルカント・オペラの展開もそれだけ早まったであろうとも考えられる。
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日本での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 07:16 UTC 版)
日本では、PSYの知名度や人気は他のK-POP歌手に比べると低いのが現状である。その理由としては、PSYが他のK-POP歌手のように日本語詞バージョンの楽曲を発表しなかったことや、PSYが日本でプロモーション活動をしなかったこと、パパイヤ鈴木のように小太りでダンスが上手いキャラがすでに売れており、欧米で受けたPSYのダンスもそれほど目新しく映らなかったことなどが指摘されている。2012年夏ごろの時点では、PSYの日本進出が検討されており、『江南スタイル』に日本語バージョンの歌詞を付け、タイトルも『六本木スタイル』に変える案もあるとのマスコミ報道があった。しかし実際には、欧米諸国での反響のほうが大きかったので、この時点での日本進出は実現しなかった。PSYが初めて日本で出演したライブは、『江南スタイル』発表前の2012年1月に京セラドーム大阪と、さいたまスーパーアリーナで開催された『2012 YG Family Concert in Japan』だった。しかし、『江南スタイル』後の初来日は、2014年4月〜5月に京セラドーム大阪や東京ドームで開催される『YG Family World Tour 2014 -POWER- in Japan』が初めてとなる予定だったが、PSYはスケジュールの都合により出演をキャンセルした。 『TIME』誌のコラムでは、少女時代などの韓流スターが人気を集めてきた日本で、『江南スタイル』がヒットしていないのはパラドックスであり、2012年8月に竹島の領有権が日本と韓国との間での外交問題となったことが背景にあるのではないかと指摘していた。一方でMSN産経ニュースは、コリア・タウンのある東京新大久保を取材して、PSYが「かっこよくない」ことが不人気の理由で、日韓関係の政治的緊張は関係ないという韓流ファンの声を紹介していた。日本の別所浩郎駐韓国大使も、「(PSYは)美男美女が多い従来の韓国スターとは一線を画すスタイルであるため」日本で人気が無いと発言したと報道されている。
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「原子力損害の補完的補償に関する条約」の記事における「日本での評価」の解説
原発ゼロの会事務局長の阿部知子は、CSCは賠償額が非常に低く被害者賠償にならない。事故が起きたら賠償額が不足するのは福島県で分かったはずなのに、日本政府がメーカーの責任を免責するのは無責任だ、と批判した。 福島第一原発事故で進められている汚染水対策や廃炉に海外の企業が参加しやすくなる効果があり、政府は参入環境を整えることを締結理由に挙げている。裁判管轄権の集中によってアメリカ企業が自国での巨額の賠償請求リスクを抱えずに済むことで、参加を後押しされる面がある。 日弁連は2014年8月、CSC加盟反対を訴える意見書を経済産業省や文部科学省に提出した。反対理由として損害の定義が限定され、風評被害や精神的苦痛が含まれない可能性があり、除染等の回復費用の請求が国が承認されたものにのみ認められることから、賠償の範囲が限定されるおそれがあって被害者保護に欠けること、提訴が事故発生国でしかできなくなるために発生国の規定が不十分であった場合、救済が十分に行われないおそれがあることなどを挙げた。また、条約締結は原発輸出を目的としたものと指摘し、輸出による人権侵害や環境破壊のおそれがあるため、行うべきでないとした。
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「ロバート・ブラウニング」の記事における「日本での評価」の解説
上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年)の中で愛誦される詩の一つに、ブラウニング「春の朝」(はるのあした)がある。 時は春、 日は朝(あした)、朝は七時(ななとき)、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。 すべて世は事も無し。 8行の平易な詩句とのびやかで肯定的な主題は、上田敏の心地よい韻律の名訳とあいまって、広く親しまれてきた。しかしこれは独立した短詩ではなく、『ピッパが通る』という長編劇詩の一節である。1年1度の休日にピッパが「アソロで最も幸せな4人」と思っている家の前を通る。そのうちの一人オッティマはピッパの工場のオーナー夫人で情夫と結託して夫を殺したところで2人は口論中だった。ピッパの屈託のない歌声と詩の内容に情夫は心を動かされ、犯した罪の重さを悔やむ。その傍を通る少女ピッパのうたう歌詞である。 作家 夏目漱石も愛した詩人で、『三四郎』(1908年)には与次郎がさかんに連発する「ダーターファブラ」という謎めいた言葉は初出はホラティウスのラテン語句〈de te fabula〉(与次郎はギリシャ語と主張)で、「君の話だ、他人事ではない」というほどの意味で、漱石はブラウニングの「騎馬像と胸像」"The Statue and the Bust"という詩から引用した。互いにひかれ合いながら一歩をふみだす勇気がなく、秘めた想いを銅像に封じ込めた貴族と人妻の恋を諷刺的に描いた物語詩で、三四郎と美禰子にとってはまさに「他人事ではない」。 上田敏は、『三四郎』の約1年後に発表した小説『うづまき』において、この詩を重要なモチーフとして用い、詳しく内容を紹介した。 漱石の弟子芥川龍之介は自ら「ブラウニング信者」と称し、ブラウニングの『指輪と本』を意識的に下敷きにして『藪の中』(1922年)を書いたとされる。
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「リオネル・ファイニンガー」の記事における「日本での評価」の解説
欧州では抽象画の先駆けとなったカンディンスキーと並び称される画家だが、日本では知名度が低く、個展が開かれるのは稀である。 日本において、個展等の展覧会で本格的に紹介されたことはなかったが、2008年から2009年にかけて本格的な展覧会が開かれた。収蔵先としては、愛知県美術館(「夕暮れの海I」1927)、広島県立美術館などがある。
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日本での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:27 UTC 版)
1973年12月に初めて日本公開された時点で、ブルース・リー本人は既に故人となっていた(1973年7月20日死去)。1970年前半は、カンフーは日本に普及していない頃だったため『空手映画』として宣伝した。真樹日佐夫によると、当初ワーナーは本作品をメインとせず、他と抱き合わせて採算づけるために極真会館へ鑑賞を依頼した。真樹、兄の梶原一騎、大山倍達の3人がワーナー試写室に出向いて鑑賞し、大山は良く評価しなかったが、梶原は「敵味方に関わらず銃を使えなくなる設定が良く、荒唐無稽さがなくて面白い」と絶賛している。日本人に馴染みのない香港映画であることをひた隠しにし、あくまで香港を舞台にしたアメリカ映画であると強調したのは、アメリカでのワーナーの戦略と同じである。007シリーズが大ヒットしていた日本では、スパイ映画風のプロットは観やすく受け容れられ、結果としてアメリカを凌ぐ大ヒットに至った。抱き合わせでGH社から輸入された『片腕ドラゴン(ジミー・ウォング主演)』が翌年2月に公開される頃には、香港映画に対する観客の敬遠はほとんど無くなっていた。
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日本での評価
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「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」の記事における「日本での評価」の解説
日本では1980年代後半にノエビアのテレビコマーシャルでフレディのソロバージョンの音源が使用されたが、1996年のキリン一番搾り生ビール、アサヒスーパードライ、2011年のカップヌードルのテレビコマーシャル、さらには2004年のTVドラマ『プライド』の主題歌としてクイーンバージョンが使用された。「プライド」の主題歌として起用されたことがきっかけとなりクイーンが再評価、『ジュエルズ』という日本限定のベスト・アルバムが150万枚以上を売り上げるほどの大ブームとなった。 このため日本では「ウィ・ウィル・ロック・ユー」や「伝説のチャンピオン」、「ボヘミアン・ラプソディ」などと並ぶクイーンの代表曲とされ、2005年の来日ツアーでも、アンコールでアコースティック・ギターのみの伴奏によるブライアン・メイとロジャー・テイラーのデュオによる演奏が披露された。DVD版の『ジュエルズ』では、フレディ版のMVとクイーンのライブ映像を繋ぎ合わせたMVが収録されている。 元プロ野球選手の稲葉篤紀は、北海道日本ハムファイターズの選手時代に得点のチャンス時のテーマ曲として使用し、プロボクサーの田中恒成は入場曲に使用している。
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日本での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:06 UTC 版)
左派勢力[誰?]からは、本裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った『平和主義』を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に説明責任を負わせることができた」 として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。 また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になったとする見解もある(ただし、東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではないと主張する見解もある)。日本におけるマスコミの論調、国民の間では、占領期を含めてかなり後まで「むしろ受容された形跡が多い」という。宮台真司はこの裁判を、昭和天皇と日本国民の大部分から罪を取り除いて戦後の復興に向けた国際協力を可能にするために、もっぱらA級戦犯が悪かったという「虚構」を立てるものだったと位置づけ、A級戦犯だけが悪かったわけではないにせよ、虚構図式を踏襲するべきだと主張した。
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日本での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/10 07:21 UTC 版)
イギリス本国では、ほとんど評価されなかったが、日本では東芝EMIの強力なプロモーションにより、ラジオでのオンエアや、雑誌への記事掲載などで、人気、知名度を得ることができ、音楽雑誌の人気投票などにもそれが反映された。そういった状況から、日本のみ発売のライブ盤などもリリースされた。ただし日本においても、その人気に対し演奏自体の評価は低かった。 ハリスンが解散後に加入したブロンディのデボラ・ハリーは、日本の雑誌のインタビューに応じた際「彼(ハリスン)は昔、シルヴァーヘッドが、日本で人気があった時、日本に行って大変な人気だったんでしょう。ある人の話によると、彼のために日本の女の子が、自殺しそうになったとか」と話している。
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日本での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
日本では、世界的な国際レースとして紹介されてきた。 英国のダービーや、フランスの凱旋門賞、アメリカのワシントンDCインターナショナル、イタリアのミラノ大賞典、ドイツのヨーロッパ大賞、といった大レースが、世界的な権威を持っており、それらのレースの勝ち馬は世界的な名馬として高く評価されるのである。 — 山野1970、p17 凱旋門賞は、いまや世界最高賞金レースとして不動の地位を確立し、つねに各国の超一流馬を集めている。 — 競馬百科、p411 第10章諸外国の競馬 より 世界の4歳以上の芝コースのチャンピオンを決めるレースは、(中略)凱旋門賞である。(中略)世界で最も苛酷な馬齢重量によるレースであることも凱旋門賞の価値を高めており、自分の馬がこの一流レースに勝つかあるいは入着するだけでも、オーナーは計り知れないほどの誇りを感じるだろう。 — マクリーン1991、p359 ヨーロッパ競馬の代名詞といえるフランスの凱旋門賞。毎年10月の第一日曜日に行われるこのレースを勝つことは、世界のホースマンの目標。 — 海外競馬完全読本、p40 このレースを制覇することが、世界の競馬人の夢。 — 大串2011、p20 その舞台を目指す事こそが大和魂だと思います。 — 競馬ブック2016、11/20号 より、池江泰寿へのインタビュー
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日本での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 08:04 UTC 版)
「ジープ・チェロキー (XJ)」の記事における「日本での評価」の解説
この新生XJの日本への輸入は1985年3月頃から近鉄芝浦自動車整備(のちに近鉄モータースに吸収) あるいはジープ・ジャパンによって行われた。エンジンはV6 2.8L (2830cc, 110PS/4600rpm, 20kgm/2400rpm) 、ATモデルのコマンド・トラックしか輸入されなかったが、四輪駆動車専門誌『フォーバイフォーマガジン』第8406号にて試走した紹介記事によれば、「今までの4駆からすれば、大変な意欲作。なんら新技術のないシンプルであるが、絶妙なバランス」と、辛口ながらも期待の込められたコメントがなされた。 1987年、XJに大きな変更が加えられる。いままでパワー不足を否めなかった直4とV6エンジンにとって代わるべく、CJ、YJに搭載された4.2リッター直6を4.0リッターへ縮小し、改良を加えたAMC製エンジンが搭載される。3928ccの排気量と、9.2というこの手のエンジンとしては高い圧縮比から、175馬力と30.4kgmのトルクを発生するパワフルな物になる。同様に『フォーバイフォーマガジン』第8705号の記事では、「価格が割安といってもそれはあくまでも輸入車としての話である。燃費も『排気量の割には』とただし書きをつけなければならないであろうが、私達のまわりの国産4X4の『乗用車化』が、トラックにいろいろと詰め込むことにすぎないのに対して、今やあらゆる日本のメーカーよりも弱小なAMCがやっているのが、『ジープを乗用車のようにする』という相反する条件を満たす難しい作業であり、その成果がこのチェロキーなのである。高い・安いとは少々次元が違う」との評価を受けた。
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日本での評価
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小室直樹は「韓国の悲劇」として、カイロ会談が朝鮮の日本支配からの自立をうたうものの「しかるべき順序をとって」といった語句が付加されていることや、ヤルタ会談においては朝鮮解放後、米英中ソで信任統治を暫くの間続けるといった合意に、ルーズベルトがその期間を40年から50年と考えていたことなどを指摘し、アメリカ政府が朝鮮人民の自治能力について不信であったがゆえに、戦後の朝鮮統治を、旧朝鮮総督府に委任したと説明し、1945年9月9日に米朝鮮占領軍司令官ジョン・R・ホッジ中将が朝鮮総督府の阿部信行大将ら日本人官吏の留任を発表して、その後、朝鮮民衆の反発を受けてアメリカ政府が留任を撤回したという経緯を指摘する。小室が指摘する「韓国の初期状態」に対して、戦後の朝鮮統治をアメリカが旧朝鮮総督府に託したのは朝鮮統治に当たったアメリカ人たちが、日本についての教育だけを受けていたからであるという反論もある。つまり本来は日本統治に投入される予定だった約2,000名のアメリカ人民政官僚は日本の文化と言語に精通していたが、日本で軍政の代わりに天皇制を活用した日本政府自体を利用することと決定して彼らは不要になったので、急遽、予備知識の無い朝鮮半島に回されたというのである。そのため一時的に朝鮮でも旧朝鮮総督府を重用することになったという説明である。 浅羽祐樹は、国家の成立要件として、一定の領域、住民に対して実効支配を及ぼす政府の存在が挙げられ、大韓民国臨時政府はこの要件を満たさず、大韓民国臨時政府を承認した国は、大韓民国臨時政府を支援した中華民国を含めて一つも存在せず、戦勝国としてサンフランシスコ講和会議に招かれることもなく、「朝鮮独立」はサンフランシスコ講和条約で初めて承認され、「『光復』は『臨時政府』の軍事部門にあたる『光復軍』などによる『抗日闘争』を通じて自ら勝ち取ったというよりは、日本の敗戦によって『盗人のように(何の前触れもなく)突然やってきた』というのが実態」と述べている。また、浅羽は、韓国の進歩派・左派では「大韓民国は1919年に建国された」という歴史認識があり、実際の歴史事実では1919年は大日本帝国の一領域に過ぎなかったが、進歩派・左派の歴史認識では、この歴史的事実こそ「日帝強占」による「歪曲」であるため「正す」べきものであり、「正しい」歴史では、大韓帝国は国権を喪失することなく存続しなければならず、例えば李明博・朴槿恵の保守政権が「1948年は憲法が制定され、大韓民国が建国」「1945年の光復」を祝うべきとしたところ、進歩派・左派が建国は1919年であり、1948年は政府樹立に過ぎないと反発、文在寅は政権交代後、1948年説を盛り込んだ国定「正しい歴史教科書」を廃止したが、それは朴槿恵政権による「歴史歪曲」を「正し」、「歪曲」を「正す」ことが歴史の「進歩」なのであり、自分たちはその闘いを先導しているという自負が進歩派・左派の「国家の正統性」であると指摘している。その上で浅羽は、現行の大韓民国憲法前文には「我ら大韓国民は3.1運動によって建立された大韓民国臨時政府の法統」を「継承」すると書かれているが、この文言は、民主化運動中での1987年に憲法改正時に盛り込まれたが、文在寅韓国大統領は、憲法改正により「1919年建国」を憲法前文に書き込むことを目指し、2019年を「建国100周年」にしたがっている、と指摘している。 『読売新聞』2017年12月18日社説は、文在寅が2017年12月に中国を訪問した際に大韓民国臨時政府庁舎跡を訪問したことを「内陸部の重慶では、日本の朝鮮半島統治期に独立運動の拠点となった『大韓民国臨時政府』の庁舎跡を訪問した。植民地支配からの解放を勝ち取ったという独善的な歴史観を広めたいのだろうか」と述べた。文在寅はこの訪問の中で重慶の大韓民国臨時政府について「韓国の根であり、建国の始まりだ」と述べた。なお、前大統領の朴槿恵は上海の方の大韓民国臨時政府庁舎跡を訪問していた。
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日本での評価
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2013年夏に日本のカートゥーン ネットワークで行われた視聴者人気投票で、このアニメは『トムとジェリー』を抑え1位に輝いた。日本語版でガムボールを演じた竹内は、子供番組らしくも斬新な番組だったと話し、アニメーションの技法よりも、ギャグやユーモアに驚いたことを明かした。
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日本での評価
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「マーガレット・サッチャー」の記事における「日本での評価」の解説
サッチャーの首相就任から間も無く、1981年1月に就任したアメリカのロナルド・レーガン大統領も新自由主義的な政策を数多く打ち出した。さらにニュージーランドでもデビッド・ロンギが新自由主義を主導し、1980年代はアングロサクソン各国において新自由主義が台頭する時代となる。またこの時期に日本においても、1982年11月に首相に就任した中曽根康弘により、行政改革・国鉄分割民営化(1987年3月)などが行われた。 また日本では安倍晋三・平沼赳夫・藤岡信勝など、現在の歴史教育は「自虐的」と考える論者から、「偏向自虐歴史教科書を克服した先例」とされた。2006年に行われた教育基本法改正・教育バウチャー制度導入の動きは、サッチャーを模範としたものである。
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